東海村の原子炉が稼働した時、日本の新聞は「第3の火」と持て囃した。
茨城県の銘菓「原子炉」、原子力研究所羊羹、原子核アメ……。
どんなお菓子だったのだろうか?
食べると、舌にピリピリと刺激があって、ほんのり鉄の味がするのだろうか。
小豆に砂糖、そして隠し味にヨウ素とプルトニウムに中性子でも入っているのか?
这边中文版
国 放射性物質の予測公表せず
4月4日 4時15分 NHK
福島第一原子力発電所の事故で、国は、爆発が起きた翌日の先月16日、原発の北西にある福島県飯舘村などに放射性物質が多く流れると予測したコンピューターシミュレーションの報告を受けましたが、「データが正確でない」として公表を見送っていました。こうした予測データの公表の在り方を巡ってはさまざまな意見があり、今後検討の対象になりそうです。
この予測は、先月14日から15日にかけて、福島第一原発で爆発などが相次いだことを受け、国の委託を受けた分析機関が翌日の16日に「SPEEDI」というコンピューターシステムを使い、計算されました。このシステムは、原子炉の温度や圧力などさまざまなデータを基に、原発から放出された放射性物質の量を見積もり、気象データなどから放射性物質の広がりを予測するものです。分析機関では、震災で原子炉のデータが十分に得られないため、その時点で公表されているデータなどを基に、放射性物質の放出量を仮定し、15日の午前0時から24時間にわたって放出されたと想定しました。その結果、放射性物質は南西の方向に加えて飯舘村など北西の方向にも帯状に流れ、こうした地域では屋外で24時間過ごした場合に、乳幼児が受ける甲状腺の内部被ばくの量が人体に影響が出る可能性があるとされる100ミリシーベルトを超える所があるとしていました。SPEEDIは、原子力事故が起きた際に放射性物質の広がりを予測し、政府が避難や屋内退避の指示などを決める際の判断材料にするために作られたものですが、この予測は公表が見送られました。これについて国の原子力安全委員会は「その時点では、放射性物質が放出された場所や量などが特定できておらず、データが正確ではないため公表しなかった」としています。一方、被ばく医療に詳しい長崎大学の長瀧重信名誉教授は「国は、どれぐらいの被ばくが予想され、どれぐらいの危険があるかをもっと公表し、住民と共に避難などの対策を決めるべきだ」と話すなど、今回のような予測データの公表の在り方を巡ってはさまざまな意見があり、今後検討の対象になりそうです。
東京電力、被災者受け入れわずか24世帯
サンケイスポーツ2011.4.1 05:02
全国各地で被災者の受け入れが進む中、原発事故の当事者である東京電力が、保養施設や社宅を多数保有するにもかかわらず、わずかな人数しか受け入れていないことが31日までに分かった。
東電は12都県に21の社宅や保養施設、461の独身寮や厚生施設を所有しているが、31日までに被災者に提供されたのは、新潟県柏崎市にある社宅24世帯のみだ。
同じ電力会社でも、東北電力は地震発生当日の11日から女川原発(宮城)敷地内の体育館に、約240人を受け入れた。中部電力も、社宅650世帯分と保養施設90室で受け入れる方針を示しており、その差は際立つ。
また、東電のグループ企業が運営するリゾートホテルでは料金を徴収していることも判明。新潟県のリゾートホテル「当間高原リゾート ベルナティオ」(十日町市)も154室に約520人の収容が可能だが、市役所を通じた受け入れは36人まで。「直接お申し込みいただいた方は大人お1人さま1泊3食で6000円、市役所から要請を受けた被災者については同じ条件で無料となります」(広報担当者)。
東電本社では「今後も、弊社施設による被災者の皆さまの受け入れ拡大を検討して参ります」(広報部)としているが、“消極的”としかみえない東電の姿勢に疑問の声が上がりそうだ。
「第1次オイルショックを経て、1982(昭和57)年に首相になった中曽根康弘が長期政権を維持できたのは、ロナルド・レーガン大統領とロン・ヤス≠ニ呼び合える関係を築いたこともありますが、日米とも原発を国の重要なエネルギー政策として推進した結びつきもありました。中曽根は日本で初めての原子力予算の通過に尽力した推進派ですからね。この頃から自民党にはエネルギー族が跋扈するようになり、旧田中(角栄)派が土木利権を牛耳る一方、中曽根派の議員が原子力関係の利権を握るという構図でした」(自民党幹部代議士)
政界の背景を理解し、抜群の政治力を駆使できたのは、後にも先にも東電第6代社長・平岩外四(故人)をおいて他にない。平岩は1984(昭和59)年、那須翔に社長をバトンタッチしたが、経団連副会長として専ら財界活動に専念し、1990年には同会長に就任している。
「北京郊外に中国と日本のVIPが使う高級ゴルフクラブがあるのですが、金板に黒文字で刻まれたメンバープレートを見ると、中曽根康弘、橋本龍太郎という首相経験者と平岩さんの名前が並んでいました。平岩さんが経団連会長の座を退いていた1998年頃のことです」(商社マン)
この時期、平岩氏は実に精力的な動きを見せている。1997年9月に元首相の竹下登(故人)と訪中して、江沢民国家主席と会談。これは柏崎・刈羽原発に取り入れたABWR(改良型沸騰水型原子炉)の売り込みの布石であった。そして、政界へのよりダイレクトなパイプをつくろうとしたのもこの頃である。橋本首相の退陣のきっかけともなった1998年の参院選で、東電は原子力担当の副社長だった加納時男氏(76)を自民党比例区から出馬させ、逆風の中、10位で当選させた。
この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。