2006年04月05日

チャンドラ・ボースは日本軍によって抹殺されていた!?

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自慢史観の童貞坊ちゃん達が、とかく心のよりどころとする「大東亜戦争はアジア解放戦争」という妄想。

その証拠として引き合いに出されるのが、スバス・チャンドラ・ボースだ。
詳しくはこちら

国賊東條に愛された、スバス・チャンドラ・ボースが日本軍によって殺されトランク2個分のダイヤモンドと金塊は、盗まれたのでは、と松本清張は『日本の黒い霧』で書き記している。ボースは、イギリスからの独立を勝ち取るため、米英と対決するであろうソ連と組むことが得策と考え、ソ連入りを決意する。副官ハビブラマン大佐を伴ってサイゴン空港を後にした。それは、天皇による玉音放送の2日後であった(1945年8月17日)。その翌朝未明に、コーチシナのツーラン飛行場を出発して台北に飛んだのである。飛行機はKCM型輸送機で、もともと97式重爆2型の改装機であった。同乗者は、ビルマ方面軍参謀長から関東軍参謀次長へ移る四手井綱正中将だった。台北までは何の変化もなかったし、同乗者も変わっていなかった。それが、正午に台北飛行場に着いて、もてなしを受け、食事も終わり、そして給油も完了した。それから、九州の雁ノ巣飛行場に向け出発したのである。

同乗者は同じ顔ぶれで、飛行機はゆるやかにスタートして、すべる様に滑走路を離陸した。そして、僅か20秒、その瞬間にガタガタと機体は振動してキリ揉み状態になって左に傾斜し、地上に激突、機体は炎に包まれた。

チャンドラ・ボースは、全身に大火傷を負い、救急車で台北陸軍病院南門分院に運ばれたが、第3度の重い火傷で手当ての甲斐なく亡くなった。

この現場を目撃した元日映の特派員吉野宗一氏によれば
「このときのチャンドラ・ボーズの持っていたトランク2個の宝石、黄金は、独立運動のためインド全国民から献納されたものだった。これが数億とか数十億とか云われているが、トランク2個というのは、あとで石油缶2つに入れ替えられている。石油缶2つというのは大変な量だ。数億とか数十億とかいう低い数字は考えられない。あのインド軍の維持一つ見ても、そうした僅かな数字で賄えるものではあるまい。単位はこれより一桁上か、あるいは2桁上で、数倍も多いのではなかろうか」
とあり、また日印友の会理事田中正明氏の書いたものには、
「インドの民衆はボースの死を信じない。それは3つの理由が考えられる。その第一は、台北飛行場で遭難してから南門病院で最後の息を引き取り、遺骨として日本に送られ、旧陸軍の依頼で東京都杉並区高円寺の蓮光寺の住職望月森栄師がその遺骨を預かるまでのいきさつが、インド人を納得させるに足りず、幾多の疑問があるからだ。ボース氏とともに独立運動に参加したナイル氏らインド人側が、目撃者の言はまちまちだ、と言って激しく追及するのはこの点である。またボースと同乗した副官のハビブラマン大佐がかすり傷を受けただけで助かっている。
彼は遺体の顔に掛けられた白布を取り除けて確認しなかったこと、惨事の状況を曖昧にするなど、彼の帰国後の言動がさらに疑惑を深めたことは事実である。また翌日台北に飛来した副総帥のアイヤー氏にボースの遺体を見せなかったとも伝えられ、さらにボースの遺品(時計とか眼鏡)が何等のこされていない点など、疑えば際限がない。遺骨は大型トランク2個(宝石)と共に、酒井中佐と林田少尉が裁量して、飛行機で東京に運び、元大本営参謀の木下少佐に引き渡し、木下少佐はこれを元大本営第二部大八課長高倉盛雄中佐に渡した。これが9月7日で、その翌8日に、在日インド独立連盟東京支部長ムルティほか2名のインド人に遺骨を遺品と共に手渡したということになっているが、その確証もなく、日付も食い違っている。ムルティ兄弟は、その後自家用車を1台持ち、豪華な生活を送っていたが、ドル買い、密貿易などで、数回事件を起こし、目下、兄弟ともインドに帰っている。宝石問題の真相究明には、当然、ムルティとの対決を必要とするわけであるが、高倉中佐も告白しているように、とにかく、こうなってみると手落ちがあったように思う。と云うより、確かに手落ちで、この間の写真とか受領証とか、決め手になる物的証拠は何も無い」
とある。

http://www.yorozubp.com/netaji/academy/190lastday-j.htmによれば、
「翌朝、二つの箱の管埋は当直参謀の高倉中佐に引きつがれた。この日の朝坂井中佐は再ぴ大本営に出頭して高倉中佐に会い、高倉中佐がボース氏の遺骨と遺品を受け取ったことを確認した。しかし大本営はこの受領について、受領書も授受記録も作っていなかった。

 大本営参謀部はこの遺骨と遺品をインド独立連盟の手に渡すのが最も適当と考えた。そこで高倉中佐は直ちに東京にあるインド独立連盟の責任者であるラマ・ムルチ氏に電話で連絡して、大本営に出頭して遺骨と遺品を受け取るよう依頼すると共に、ムルチ氏邸に自動車を差し向けた」
とある。

大本営参謀部がトランクの中身を盗んだことは容易に想像できよう。口止め料としてインド人の兄弟にいくらか分け与えたのだろうね。

posted by 死ぬのはやつらだ at 10:59| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 大日本帝国と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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