日経エロ小説担当の渡辺淳一氏が、意外にも戦時中の朝鮮人虐待に関して語っている。
75歳の僕は戦争を小学生で体験している。当時の日本人が朝鮮や中国の人に何をしてきたかを見ているのです。僕は特別に調査、研究したわけではない。当たり前のこととして、日本人が彼らを差別し、虐げ、文化を破壊したことを知っているのです。
(小学校低学年の頃)当時、僕は北海道でもっとも大きな炭鉱があった(三井)砂川に住んでいました。市外の外れの崖下に炭鉱労働者の飯場があった。そこには絶対近づいてはいけないと言われたものです。朝鮮人労働者が毎夜『アイゴー、アイゴー』と泣く声やムチで打たれていることがある、と聞いたからです。しかし、ある日の夕方、見てしまった。市街地の道路が騒がしいので行くと、半裸で半死半生の朝鮮人労働者が獣のように両手両足を棒に縛られ、運ばれてきたのです。大人たちに聞くと、棒頭に逆らったので制裁を受けたのでは、と言う。『死んじゃうんじゃないの?』と聞くと、黙ったまま何も言わなかった。とにかく白昼堂々、道路のど真ん中であんな姿を見せるとは、かつて戦争中、日本人はこういうことを平然としてきたのです。
もう大多数の日本人は次のニュースを忘れてしまっているだろうが、改めて記憶に刻んでおきたい。
日本政府が強制徴用前にも人力管理に介入
FEBRUARY 20, 2006 03:01
日本政府の主張とは違って、1944年の強制徴用前にも、日本で働いていた韓国人労働者の管理に、日本政府が深く介入していたことを立証する文書が、第87周年3・1節を10日後に控えて発見された。
日帝強占下強制動員真相究明委員会は19日、「朝鮮総督府が1941年、北海道の三井砂川炭鉱で働いていた韓国人労働者たちに、帰国せずに働くように再契約を促す手紙を入手した」ことを明らかにした。
日本政府は、強制徴用以前に日本に渡った韓国人労働者は、日本企業と自発的に契約し、政府レベルで管理しなかったため、韓国人労働者の被害に対して責任はないと主張してきた。
日本政府が、1939〜1943年、日本の炭鉱などで働く労働者を募集・斡旋する過程で暴力を振るうなど、強制動員を示唆する資料が発見されたことはあるが、彼らの労務管理に直接介入した事実を立証する文書が発見されたのは、今回が初めてだ。
朝鮮総督府の名義で1941年10月1日に発送された同手紙は、「1939年に日本に行った労働者は、契約期間が終わることになったが、再契約を結んで働き続けることが立派な皇国臣民になる道だ」という内容を含んでいる。
また、同手紙は、北海道炭鉱などでしばしば発生した韓国人労働者の無断離脱や労働争議を自制することを促し、韓国の家族を日本に移住させることを勧めている。
韓国人労働者家族の日本移住は、1941年に日本内務省警保局(警察庁に該当)が、日本企業に指示した政策だ。
真相究明委は、「朝鮮総督府がこれについて言及したことは、日本政府と朝鮮総督府、日本企業が密接に協議して、労働者を管理していたことを示すもの」と説明した。
同手紙は、1940年から三井砂川炭鉱で働き、1942年に事故で死亡した李鳳玉(イ・ボンオク、死亡当時34歳)氏が保管していたもので、遺品とともに遺族に伝えられた。李氏の息子の英洙(ヨンス、72)氏は最近、同手紙を真相究明委に送った。
真相究明委の韓恵仁(ハン・ヘイン)調査官は、「日本政府が強制徴用前に韓国人労働者の募集、斡旋、送致と管理に介入したという事実が立証されたことによって、韓国人の強制動員に対する日本政府の責任範囲が拡がり、被害補償訴訟も活発になるものと期待される」と述べた。(韓国 東亜日報)
反面教師として、『ふるさと上砂川』というサイトに載った朝鮮人労働者の記事も紹介しておこう。
http://donetjp.com/kamisuna/?p=107
当時は、朝鮮人も日本人であり、同胞であったから、昭和16年以降は、生活も ほとんど在来日本人同様になり、種々の風習や炭山の習俗にもなじみ、三井砂川の 住民になりきり、次のようなエピソードを残している。
当初は、家族たちは、何分にも言語、人情、風俗などすべて異なる異郷にきたのであるから、何彼につけて不自由が伴った。しかし近隣の人たちは、自発的に金を出し合い、入山記念品として炊事道具を贈ったりして励ました。また、同郷の人たちは、「家族を持って若し出勤時間に遅れたりしては、産業報国の趣旨にもとり、内地同胞 に対しても申し訳ない」と、目覚し時計を各戸に一個ずつ贈るなど…. <上砂川町史より>
盆踊りなど純日本的な風習にも、初めはにぎやかさに誘われて見物していた朝鮮人も、いつか赤と黄の襷を持ち出して、踊りの輪に加わるようになり、また共愛会の運動会には、各種目に朝鮮人労務者が出場して数多く入賞し、特に朝鮮人労務者が熱狂したのは、朝鮮人寮対抗リレーで、大会の花形とまでいわれたものであった。昭和16年9月には、これら朝鮮人労務者とその家族を慰安するために、朝鮮楽劇団を呼んで、娯楽館で演芸大会を催したが、歌曲、舞踊、寸劇などに熱狂的な拍手が 渦巻いた….
やがて、三井砂川に稼働する朝鮮人労務者は、それぞれ2年間の契約期間が満了と なり、帰郷することになったが、100名以上の労務者が非常時下の石炭産業にと 契約を更新するとともに、「半島産業挺身隊」を結成して増産に励み、所内表彰を 受けたりした。
東町親和寮に住む朝鮮人労務者たちは、報酬の中から郷里の小学校新築について 寄付募集を申し合わせるなど、郷里の母校を想う同窓愛は、われわれと何ら変る ものがなく….<上砂川町史より>
こんなに素直でやさしく、なじみ深かった朝鮮人労務者も、終戦後の動転(日本の敗戦と朝鮮の独立など)を期に、ほとんどが三井砂川から引き揚ていったが、戦後、各地で朝鮮人騒乱がみられた中で、三井砂川に朝鮮人騒動がなかった(中国人との抗争はあったが)のは、戦時中の鉱業所の対応措置が適切であったこともさることながら、炭山のひとたち(近隣、同僚など)が人種の垣根を越えて、真に同胞として 善隣友愛を貫いた真情によるところも、また大であった。
半裸で両手両足を棒に縛られていた朝鮮人労働者の姿……。子供であった渡辺氏には見えていたが、上砂川の大人たちには見えなかったようであるw





歴史修正主義的な記事が溢れる中、異彩を放っていました。
雑誌は売れなきゃ廃刊です。
朝日ジャーナルってのは、売れなくなったから廃刊したことを左翼は考え直したほうが良いと思います。