
今年もあと少しとなりましたが、コイズミ自民党に投票した国賊の皆様、いかがお過ごしでしょうか。
オマエラの所為で、憲法も風前の灯がほぼ決定。来年は、ますます住みずらいスバラシイ日本が待っていそうです。拉致された日本人も、餓死するかも知れません。
いいだもも が、雑誌『en-taxi』にて三島由紀夫宛に書いておりますよ。
かれ三島は、生前自分の口から、「おれは2番、1番はいいだ」「いいだは日銀で、おれは大蔵省」と、2番ヴァイオリンを自認するケンジョウ奇特な学友であったが、もうそろそろマクラを高くして寝たらいいんじゃないかね? 皇室典範改正で「女性・女系天皇容認」ということになり、精神病院を出たり入ったりしている母后の鼻タレ小娘が久しぶりに「女性天皇」になることがきまったのだし、念願の日本国憲法第九条(戦争の放棄・戦力放棄条項)が廃止・改憲される「自民党結党50年記念・新憲法草案」が出たのだから。もういいじゃないか。
念願だった自衛隊の「国軍」への昇格が、第三次小泉内閣下で自衛省国防大臣の管轄下に決まったんだよ。それでもダメかね? 鼻タレ女性天皇や今春サマワ撤退必至の自衛隊では、マスラオぶりにふさわしくないかね?
三島が望んでいた日本が、来年にも実現されようとしているかに見えるが、当の三島が望んだ日本なのかどうか疑問だ。
昭和80年の今年、コイズミの靖国参拝が問題となったが、俺にとっては、首相の参拝なんぞ極論すれば、「文学的な事」であって、本質は昭和天皇の責任問題の決着をどうするのかってのが重要な事だったのだと考える。
中共のおかげで、A級戦犯が問題となった今年が、その議論を深めるチャンスだったはずだ。それも出来ずに終わったことで、「あいまいな日本」という伝統はズルズルと継承されて行くのだ。『男たちの大和』で流される鼻水とともに。
昭和20年、8月15日。昭和天皇の肉声「終戦の証書」は、ラジオを使い全国に放送された。これを聴いた高松宮は、海軍省軍務局次長の高田利種少将に、
「証書の中に、天皇が国民にわびることばはないね」
と語った。たしかに証書では天皇自身の責任について何の言及もなかったのだ。また高松宮は、昭和天皇崩御後に、「あの戦争は陛下がお停めになろうとすれば、お停めになれたはずだ」と評論家加瀬英明に語ったともいう。
20年11月1日、伊勢神宮に参拝、「終戦の報告」をした。国民は犠牲となったが、「3種の神器」は守られた事を喜んだ。そのころ、国民は食料確保に必死の状態。列車は鮨詰め状態で、圧死する人もいるというのに…。本人は、お召し列車で優雅に参拝だ。
同、11月19日。新聞では、餓死者が全国的にでていることを報道。仙台では1日平均1人、横浜では3人、東京では多い時は日に6、7人。その時、宮城では、朕はたらふく喰っていたというのに。
同、11月21日。ミカドは敗戦後始めて、靖国神社に参拝した。国民への謝罪なきまま、何を祈ったのか。合祀された兵士は、天皇の命令で戦死したものたちだ。
同、12月18日。巣鴨刑務所に出頭する当日の朝、元首相の近衛公爵が服毒自殺。自分が戦犯で逮捕されて、「陛下に責任が及べば生きておれない」とこぼしていた矢先の服毒自殺。どう考えても、自分の身替わりと天皇は考えなかったのだろうか。
近衛は、10月21日、AP通信東京特派員ラッセル・ブラインズのインタビューに答え、「天皇の御退位手続きに関する規定は、現行の皇室典範には含まれていない。(中略)憲法改正にあたる専門家は近く、改正皇室典範に退位手続きに関する条項を挿入する可能性を検討することになろう」と語っている。
近衛は、天皇が退位されることにより、戦争責任をとることを考えていた。
明けて、21年元旦。昭和天皇は「証書」を公布した。
「然レドモ朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ体威ヲ分タント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛ニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」
いままで絶対的な「現御神」と君臨し、それを批判する国民を「大逆罪」として処刑虐殺または、拷問しておきながら、それをいとも簡単に180度の方向転換。臆面もなく「信頼」だの「敬愛」などという。天皇を祭り上げてきたのは国民であって、朕は知らんぞと言うのか。
「惟フニ長キニ亘レル戦争ノ敗北ニ終リタル結果、我国民ハ動モスレバ焦躁ニ流レ、失意ノ淵ニ沈淪セントスルノ傾キアリ。詭激ノ風漸ク長ジテ道義ノ念頗ル衰へ、為ニ思想混乱ノ兆アルハ洵ニ深憂ニ堪ヘズ」
開戦の詔勅にハンコ押して、国を破滅に導いた当の本人が自分はそのことには何もかかわりあいはないって宣言に等しい。国民の「焦躁」も「詭激」もそのほとんどは自分の責任から起きている事だと心が痛まないのか。「道義ノ念頗ル衰へ」たと言っているが、戦争責任を放棄した自分の事は棚に上げて、よくも最もらしい事が言えるものだ。道義が衰退した根源はそもそも戦争責任を取らなかった天皇自身にあるのではないか。反面教師としての自分の存在を自覚してくだされ。「深憂ニ堪ヘズ」はこっちのセリフだ。
「一年ノ計ハ年頭ニ在リ、朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ」
「一年ノ計ハ年頭ニ在リ」と言った男が、戦争責任を放棄しておきながら、国民に対し「自ラ奮ヒ自ラ励マシ」などというのは笑止千万なり。
この証書の原案を書いたのはGHQだった。天皇の利用方針をかためていたGHQとしては、「民主化された天皇」のイメージを、国際世論とくに米本土の世論に強くアピールする必要に迫られたからであった。
同年、1月16日。新聞に「
転落の復員軍人を…聖上深く御憂慮、復員省、異例の上奏文」という見出しで「『特攻隊くずれ』の厭わしい名の下に強盗にまで転落する者さえ出た。この暗澹たる状態について、天皇陛下は頗る御憂慮遊ばされ、さきに第一、第二復員者に対し『
復員軍人で犯罪者に転落する者もあり又特攻隊くずれなどという言葉さえ見受けられるが、現状はどうか、これを善導することは出来ぬのか』という御下問があった」という記事が出た。
国全体を暗澹たる状態に追い込んだ責任もとらずにいる天皇に復員兵の「善導」を云々する資格はあるのだろうか。
同年、2月21日、天皇は、横須賀の久里浜の引揚援護所に行幸。サイパンからの復員兵とこんな会話をかわしている。
天皇「戦争は激しかったかね」
兵 「はい、激しくありました」
天皇「ほんとうにしっかりやってくれて御苦労だったね。今後もしっかりやってくれよ。人間
として立派な道にすすむのだね」
決めゼリフ「ああ、そう」がなかっただけ救いだが、あまりにも「気配りのない」空虚な会話だ。俺だったら、「苦労をかけてすまなかった」と、ねぎらいの言葉をかけるがな。もしかしたら、昭和天皇は無自覚だったのかもしれない。かえってその方が救いのナイ話だが。
俺たちが、もし不慮の事故で他人を傷つけたり、あやまって死なせてしまったら、それで一生を棒にふらなければならない。それが、法治国家として当たり前のことだ。ところが、天皇の場合は違う。自分の詔勅で多数の国民を悲惨な運命に追い込んでおきながら、まるでそんな事実はなかったかのように、出迎えの『支配されたがる国民』にたいし「帽子をふって」こたえていた。もちろんこれも側近の演出なのだろうが。
今年、最後になって、我が日本は「偽造マンション」で大騒ぎだが、そんなことは驚くに値しない。
無責任を貫き通すスバラシイ伝統は、60年前、わが大御心が身をもって我々に示してくれているのだから。