拓殖大学。俺が学生だった頃、その名は
右翼の代名詞であった。いまは、どうか知らんが。
建学の精神読んだら、冗談かと思った。
拓殖大学は明治33年(西暦1900年)、桂太郎公爵の手により台湾協会学校として台湾開発のために「地の塩」となって貢献しうる人材の育成を目標に創立されました。
以来、一貫して「積極進取の気概とあらゆる民族から敬慕されるに値する教養と品格を備えた有為な人材の育成」という建学の精神のもとに、多くの卒業生が世界各地で活躍する“国際大学”のパイオニアとして大きな足跡を残してきました。そしていま、時代はさらなる国際化、グローバル化を推し進め、政治・経済・文化のあらゆる活動が国の枠を超え、単なる国際交流ではない、異なる生活様式の人々と共に生きること。つまり一つの地球上に共生する同じ人間としての共通意識の上にたった視点をもつ人材が必要とされているのです。
校歌にも謳われる「人種の色と地の境 我が立つ前に差別なし」。
拓殖大学では、創立百周年を経てこの建学の精神をいま一度確認すると共に、アジアへ世界へと羽ばたき、貢献できる真の国際人を育成していきます。
イメージはバリバリ体育系右翼だが、国や人種による差別はないのが、拓殖大学なのである。
今日、その拓大某運動部OBと会った。彼は運動部時代、8月9日の反ソ・デーに右翼の恒例行事、ソ連大使館への抗議行動に動員されていた。要請は、笹川良一と児玉誉士夫からだったらしい。日当は弁当だけだったようだが、実は、笹川&児玉から1人28.000円もの日当が出ていたようだ。それは全部、先輩にピンハネされていたようである。卒業後に判明したとのこと。
第12代総長
中曽根康弘の頃である。
1978(昭和53)年05月10日:
拓大応援団リンチ事件発生。新入生、シゴキで死亡、上級生7人が逮捕。中曽根は、この事件が起きると、とっとと辞めてしまった。
その頃の拓大運動部は、銀座のクラブ数件の私設ガードマンも請け負っており、飲み放題で大暴れしていたようだ。その暴れ方は尋常ではなかったらしく、新宿でも学ランに拓大バッチを付けていれば恐い者はなかったという。
posted by 死ぬのはやつらだ at 00:31|
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似非『愛国者』
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