芸能人のことを河原乞食としていた時代が日本にはあった。
いまでは河原は河川から消滅し、護岸工事の川のみなので河原乞食が有り得ないのだが…。
そもそも河原乞食はなぜ河原で興行したのか?
645年の大化の改新にさかのぼる。
701年に大宝律令が制定される。朝廷の財源確保のための課税制度が確立される中で、河原だけが課役免除になった。河原は当時の唯一の非生産地帯だったからだ。
その河原に集まって生活を営んだ人々は理由はともあれ課役を拒否した人間たちだった。
「河原者」「河原乞食」と呼ばれて蔑視されることに甘んじた代わりに税金を払わないでもよかったのだ。
いまでは、巨額な税金を収める「河原乞食」となっている。
河原乞食が初めて納税するようになったのが1875(明治8年)。芸人たちは祝杯をあげて一人前扱いをされたことに感謝したのだ。
河原者の中には不精者、すね者もいれば反政府の立場をとる人間もいた。
生産手段が与えられない彼らの生きる道が「ヤクザ」「女郎」「芸人」といった職業を生み出した。
能、狂言も河原者が創りだし、京都に残るいくつかの名園も彼らの手によっていることはご存知の方も多いことだろう。
彼らの生活手段とはまるで別に封建制度の施政者は、この河原者を有効的に社会に組み入れることを考え出した。
「穢多・非人」という階級がそれである。
彼らは徹底した差別を受けることにより、百姓たちの欲求不満のはけ口にされた。
足利時代に武士に密着した能につづいて、江戸時代では歌舞伎の存在がクローズアップされた。それは弾圧と云う形でだ。
江戸の場合、歌舞伎の芸人は浅草に住む
穢多頭弾左衛門の支配下にあった。
彼らは武家社会を中心とした善良な風俗を乱すということでいつ江戸から追放されるかわからない存在だったのだ。
イレズミ判官遠山の金四郎でおなじみの
遠山左衛門尉は天保の改革で放遂されそうになった役者をかばい、猿岩町に限るということで江戸に芝居小屋を残した大恩人だ。
猿若三座の時代から明治維新。
初めて猿若以外の土地に小屋を建てたのが1872(明治5)年の築地新富座。
守田勘弥(12代目)の努力で1887(明治20)年に
天覧歌舞伎を成功させた。
これが歌舞伎役者を河原乞食から芸術家に一転させた大事件である。
下級武士、足軽上がり、チンピラ同然の明治(坂の上の雲)権力者は能、狂言は理解できなくても歌舞伎ならわかったのだ。
明治大帝が大そう喜んだ天覧歌舞伎からわずか7年後の1894(明治27)年。
川上音次郎が歌舞伎座の舞台を踏んだことに腹を立てた9代目団十郎が「舞台を削りなおせ」とのぼせあがるほどに河原乞食にしか過ぎなかった歌舞伎役者はエラクなったのである。
乞食の階級としては最下位の「カドヅケ」から育った浪花節にしても、明治31年の桃中軒雲右衛門の登場以前は全くの河原乞食扱い。この系譜は
三波春夫にまでつながる。
1911(明治44)年に開場した帝国劇場では
三浦環が
歌舞伎役者と同じ舞台を踏んだことから「官学出身が河原乞食と一緒とは何事だ」と問題になったし、女優になった姉を恥じて自殺した青年までいた。
1914(大正3)年に始まった宝塚歌劇も温泉の余興として風呂の蓋の上で踊っていたのである。河原乞食以外の何物でもないのだ。
漫才の悪戦苦闘ぶりも酷いものだった。
落語家に「河原乞食とは出られない」とストライキをやられ、1925(大正14)年に始まったNHKでもあらゆる娯楽放送の中で一番最後まで出演を許可されなかったほど差別された。
この漫才を一般の娯楽にまで押し上げたのが
秋田實である。
昭和に入って彼らが社会的に認められ始めたのは
戦争に協力するということだった。
慰問舞台は次から次へ送り出され、軍部にとって芸人と慰安婦はなくてはならぬ存在になってしまったのだ。
いまでは芸能ニュースなどと朝からチヤホヤされている元河原乞食たちだが、同じ河原乞食出身であるヤクザと女郎は社会から敵視され、いまだに河原乞食同様の待遇というのが気の毒だ。
彼らが権威と結びつくことなく河原乞食としての道を歩き続けていることは、もっと賞賛されて良いことだと思う。
法よりも尊重したい、義理と人情の世界というものの方が、よっぽど人間らしいとも思ってしまうのだ。
【余談】
乞食の世界にも階級はある。
ケンタ、ツブ、ダイガラ、ヅケ、シロイ、タカリ、ガセ、タカモノ、カドヅケという順位がある。
乞食の最上級は「ケンタ」だ。一定の場所に座って営業する。
「ツブ」は俗に言う袖乞、ブラブラ歩きながら恵みを受ける。
ダイガラとズケは残飯あさりが主で、周辺の料理屋や商店の前を勝手に掃除して残飯を貰ったりする。ダイガラはズケよりも縄張りが高級だってこと。
シロイはゴミあさり専門。
タカリはちょっと悪質な傾向を帯びた乞食だ。
ガセは女性の場合の売春婦をさす。
タカモノは神社などで小屋掛けの見世物を演じた乞食。
カドヅケも門ごとに訪れ銭を請う芸人。三味線弾いたり何でもやっていた。
なぜか芸人は乞食の中でもタカリやガセよりも下に並ばされているのが興味深い。農産物や海産物などを生産せず、あくまで芸で生活する河原乞食は、時の権力者からすれば厄介な存在だったことが伺える。