2007年04月08日

神道を軽蔑した天皇がいた 

愛国心を強制しようとする杉並区役所の区長がつくった杉並師範館にこうあります。
日本は今、新たな国家存亡の危機に直面しているといっても過言ではありません。政治・経済・社会のあらゆる分野における行き詰まり感、人々の自信喪失、規範意識や公徳心の希薄化、犯罪の増加・低年齢化。我々は、過去において経験したことのない、未来への夢を描けない時代のただなかにあるのではないでしょうか。

わが国は長い歴史を有し、この間、連綿と独自の光輝ある伝統精神文化を保有して、発展的な歩みを続けて来ました。しかし、今日のわが国は、世界有数の経済大国と称されながら、国力は全般的に衰微し、人心の荒廃は著しいものがあります。戦後の急速な経済復興で、我々は経済的豊かさを手にした反面、かつては貧しさの中にも備えていた精神的豊かさを失ってしまいました。
(杉並師範館の設立趣意書より)


たぶん、彼らの言うところの「連綿と独自の光輝ある伝統精神文化」、その根幹にあるのが神社なんだと思う。

俺も、文化としての神社が好きだ。「かなまら祭り」なんてのもあるしね。

ところが、神社・神道というものが誤解されていることが多いのも事実なんだなぁこれが。


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2006年04月23日

中世日本 開放されていた女性の性

あの男根作家が仕切る東京都教育委員会。

そこで、『日本の伝統・文化理解教育推進会議』という茶番をやっている。
http://www.kyoiku.metro.tokyo.jp/gijiroku/gi_dentoubunka.htm

それならば、16世紀後半に、日本に滞在したポルトガル人イエズス会司祭ルイス・フロイスが記していた、当時の西日本の女性の行動規範を子供たちに実践指導してやってほしい。続きを読む
posted by 死ぬのはやつらだ at 16:40| 東京 ☁| Comment(4) | TrackBack(0) | 日本とは何か | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月05日

反日 嫌韓 中華思想 日本・韓国・中国どの国も閉鎖的だ

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日本では、マンガ「嫌韓流」が、本を読まない無職の若者に売れているが、日帝により植民地と化した屈辱の歴史を引きずる韓国では「反日」本が昔から売れているだろうし、最近は中共でも、無職の若者や学生に「反日」本があれば売れるはずだ。

たぶん、この3国の国民は、お互いに自分の国が1番だと自負しているはずだ。

隣同士で、こんなに文化が違うのはなぜか?

韓国 徳成女子大学教授 イ・ウォンボク氏が著書『遠い国・近い国 日本』(日本でのタイトルは酷いセンスの『コリア驚いた! 韓国から見たニッポン』)で分析している。続きを読む
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2006年01月22日

『神武天皇』はウソ『神武大王』が正解 トホホ殿下よ、国史をお勉強し直しなさいませ!

文春2月号記事『天皇さま その血の重み』での寛仁親王のトホホ発言。あまりにも無知なウメボシ殿下の暴言に苦言を少々。続きを読む
posted by 死ぬのはやつらだ at 22:11| 東京 ☀| Comment(10) | TrackBack(1) | 日本とは何か | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月15日

「コーヒーでよろしかったでしょうか?」の発祥地はどこだ?

日本一売れない週刊誌、週刊金曜日(1/6号)の対談 中村うさぎx町田健(言語学者)が、かなり「楽しめた」。「問題な日本語」なんてホントにあるの?って記事である。

最近、職場でもタメ口が多くてイライラする古い俺がいるのだが、中村うさぎ(かなり好きだ)と町田健の考えにバキューンされた。「正しい日本語」なんぞ意味がないってのが結論だ。

大前提として、言語は絶対に変わっていくもの。日本語だって「東京語」というものを基本にして「標準語」としているだけで、どれが正しいなどということはもともとない。いま、いろいろ言われている「問題な日本語」は「間違っている」のではなく「前とは違う」ということ

尊敬語とか謙譲語というのが崩れてきているが、崩れる理由がある。尊敬の対象が、以前は年長者とか社会的規範に従っていたわけだが、いまは本人の距離感にまかされるからだ。

謙譲語というのは、自分を低めることによって相対的に相手を立てる、つまり間接的だ。敬意をそのまま表すわけではない。一種の自己卑下である。だから、どんな言い方であれ尊敬の意さえ示せればいいのだから、謙譲語がなくなるというのは、合理的な流れであって、悪くない変化なのではないか。

新しく使われるようになった言葉には、腕局表現が婉曲表現が少なくない。
例)「なにげに」「〜みたいな」
婉曲表現は人間関係を円滑にする一つの手段だが、とくに日本ではもともと多い表現で日本語の特徴。新しい婉曲表現が次々と出てきても、なんら不思議はない。

そこで問題。それならば、「コーヒーのほう、お持ちしました」って表現は「コーヒーお持ちしました」と断言せず、婉曲表現となるのか?
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posted by 死ぬのはやつらだ at 01:41| 東京 🌁| Comment(3) | TrackBack(0) | 日本とは何か | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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