2008年02月03日

札幌オリンピックと真駒内の思い出

いまから36年前の1972年2月3日、札幌オリンピックの開会式が行われた。

俺は叔母とこの開会式を観に行った。


かなり寒かったけど、快晴だった。

昭和天皇が開会の宣言をするが、その話し方が耄碌爺さんのようでおかしかったが、誰も笑わなかったのが不思議だったことを覚えている。
あとは、スピードスケートのアルト・シェンクはカッコ良かったし、アイスホッケーは小学校の授業として観戦。キーパーのマスクが仮面ライダーの怪人のようだった。またジャンプも見たが、競技のことはほとんど覚えていない。
それよりも、俺はマセテイタのでアメリカのフィギュア選手ジャネット・リンに夢中になった。とっても可愛くて、ポスターも壁に貼った。
その彼女が米プロテスタント右派のパワー・フォー・リビングのCMに出たことにはがっかりした。その主張もそうだが、なにより「氷の妖精」がただの太ったオバチャンになっていたことである…。

お祭りのような競技はたったの10日間で終わってしまった。子どもにはすごく短くて、閉会式は寂しかったな。

また、オリンピックを境にして、札幌は大きく変わった。
10歳だった俺にとって、ゴムタイヤの地下鉄ができたことが嬉しかったし、地下街も楽しかった。いまは撤去されているけど、昔は通りの中央に水が流れていたんだ。冬が寒い札幌としては、地下街の存在は有難い。でも最近は札幌駅周辺の方に人の流れは移っているけどね。地下街は、札幌に住む浮浪者たちの貴重な冬の住処ともなっている。外じゃ凍え死ぬからね。


大きな地図で見る
上の地図はメイン会場となった南区真駒内の競技場周辺だ。なぜか真駒内の部分だけ、冬に撮影された写真なんで、緑がなくて残雪が写っている。
ここはそもそも、米軍将校のゴルフ場であった。
その後公園となって、オフクロと真駒内に買い物に行ったときの帰りは、ここのバンカーなどで砂遊びなんかやったものだ。

真駒内には陸自の駐屯地(地図右上の広い部分)があるが、終戦直後は米軍の駐屯地となっていた。真駒内に通じる藻岩橋では、米兵によるレイプ事件が多発していたというし、よくジープが転落事故を起こしていたそうだ。

オリンピックの選手村も真駒内に作られたが、女子村は、当時としては最新の高層マンションとなっていた。
その向かいには、スノッブなスーパー、クリスタルタウンが出来た。そして、その近くには、いまでもあると思うが、札幌初のケンタッキー・フライドチキンが出来たのだ。
これもオリンピックのおかげである。

最後に、札幌オリンピックのテーマソングを紹介しておこう。
トワ・エ・モワが歌う名曲の作曲者は村井邦彦とくれば、名曲になるのはあたり前田のクラッカーである。
また、詩がなんとも良い。NHK「みんなのうた」で頻繁に放映されたので、俺は今でも歌詞を覚えているし、なぜか涙腺が緩む。
詩人であり札幌医大教授の河邨文一郎の作品。医師から爺向けのエロ作家に転向した渡辺淳一は、彼の教え子のひとりである。





posted by 死ぬのはやつらだ at 23:01| Comment(3) | TrackBack(0) | オッサンの昭和回顧 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私もオリンピックを見に行ったはずなのですが、記憶に残ってません。

「虹と雪のバラード」は何年たってもNHKでよくかかっていましたね。こないだTSUTAYAで「青春歌年鑑'72」を借りてきてパソコンに入れました。
Posted by 元道民 at 2008年02月04日 21:57
子供の頃、真駒内のジャンプ場に連れていってもらいました。あれは札幌五輪の翌年の夏だったかなあ?
ジャンプ台の上までのぼって下を見下ろして「おっかねえ」と思った記憶があります。


ところで「虹と雪のバラード」って村井邦彦の曲だったんですね。知らなかったです。
調べてみたら、なぜかココでぜんぶ聴けるみたいです。
http://blogs.yahoo.co.jp/jirokeikei/53138655.html
Posted by やきとり at 2008年02月05日 00:37
>「青春歌年鑑'72」
このシリーズは俺もお世話になってます。

>村井邦彦
この人が業界に入った頃、やっぱり演歌が格上で、洋楽嗜好の曲書くと、書き直しだったらしいよ。
Posted by 死ぬのはやつらだ at 2008年02月05日 06:46
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