ドイツ国防軍西部戦線参謀総長ブルメン・トリット少将が、連合軍の上陸を察知し、ヨードル元帥に予備の機甲師団の出動を要請するも断られる。
「ヨードルに断られた。彼も総統の許可なしには機甲師団を動かせんのだ……。そして、総統はお休みだ」
奇しくも、1945年3月11日「東京大空襲」のあの日、日本の大元帥もお休みになられていた……
10万人もの都民が米軍(中国でもソ連でもない)によって焼き殺されたあの晩。
なぜか、空襲警報は、その日に限って「空爆開始後」に出された。すでに被害が甚大となった午前0時15分にやっと警報が発令されたのだ。昭和20年3月10日の東部軍司令部で何が起きていたのか?
米国戦略爆撃調査団が戦後おこなった調査によれば、東京の消火体制は、第1弾投下後30分を経ずして壊滅していた……。さらに空襲は、その後も続き、最後のB29が立ち去ったのは、その1時間後の2時32分であった。
そのうち情報板の赤い豆ランプは、あちこちで点滅をしだし、次第に状況判断が不可能になりだした。
私は参謀に「空襲警報を発令すべきだ」と進言したが、参謀は空襲警報を発令しなかった。
参謀としては、状況がはっきりしないうちに、しかも深夜に空襲警報を発令すれば、天皇陛下は地下の防空壕に非難しなければならなくなるし、社会の機能はその間に麻痺することになるだろうとの、配慮があったのだと思う。
そのうち敵機が下町に焼夷弾を投下したとの情報が入ってきた。この時、始めて空襲警報が発令された。
3月10日の空襲警報が、空襲が始まってから発令されたのはこのような経緯があったからである。
当時、東部軍司令部所属、陸軍中尉藤井恒男さんの証言だ。(78年3月9日放送「NHK特集 東京大空襲」より)
「屋上から肉眼監視が刻々と状況を伝えてきますけど、とにかく、火の海であると。それで、僕は上へ上がってみました。そしたら、それはとてつもない火でしたね。すぐ下へ降りてきて、一戸という参謀に参謀、屋上からいちどご覧になってください≠サうしたら参謀もそうか、藤井、そんなに酷いか≠ニ、それで屋上に上がって、燃え盛る火の海を見て戻ってくると、一戸参謀は、机の上に両手で頭を抱えてうつ伏して涙を流しておられましたね。そりゃ想像はつきます、現場に行かなくても。どういう惨状があそこで起きているかということを」
天皇が休まれておられるのを起こすのはできなかった……。そして、臣民に「空襲警報」は発令されず、被害は甚大となった。
東京大空襲から、1週間たった3月18日、昭和天皇は、小豆色のベンツで極秘に戦災地を巡幸した。
「大正12年の関東大震災の後にも、馬で市内をまわったが、こんどのほうがはるかに無残だ。(略)侍従長、これで東京も焦土になったね」と藤田侍従長に昭和天皇は話したという。
話を、「史上最大の作戦」に戻そう。
機甲師団の要請を「総統の睡眠」によって拒否されたブルメン・トリット少将は、部下のクルトに諭す。
「歴史が変わる。我々はまさに歴史的瞬間にきているんだ。……ドイツはこの戦争に負ける。偉大な総統が睡眠薬を飲んで眠っておられるからだ。お起こしすることは出来んからだ。まったく信じられんな。いいかクルト、この事実を覚えておいてくれ。我々は歴史の証人だ。後世の歴史家は、そんなことはあり得ない、と言うだろう。だが事実……総統をお起こしすることは出来んのだっ! 神は我々に味方してはくれんだろう」
「大東亜戦争」が侵略戦争だったかどうかの判断を、安倍晋三は「後世の歴史家に委ねたい」と言ったが、後世の歴史家に判断などできるわけがない。いまこの世に生きている人たちの証言が一番、重みを持っているのではないだろうか。そして、我々に残された時間は、証言者が高齢となったいま、限りなく少ないのだ。
政府の広報機関を成り下がった分際で受信料の支払い義務とは片腹痛いわ。
やはり連中は我々を臣民としか看做していないようだ。
機甲師団はヒトラーの許可無しに動かせないという事。
慰安所の開設から慰安婦の移動まで軍の許可無しにできなかった事実は闇に葬ろうとしている阿倍にも驚きですが。
潔く責任を認めたドイツ政府と何と違う事か。
全ての責任を取ってこそ日本人として誇りを持つ事ができるはずなのに、それをしようとしない。
口先だけの謝罪では被害に遭ったアジア諸国は永久に日本の事を赦さないであろう。
はっきり言えば、ヒトラーの口出しさえなければ、ドイツは、もっとましな負け方ができた。
いっぽう、わが日本。大元帥閣下の口出しがなくても、帝国陸海軍は無能だったので、大負けしましたとさ。