2007年03月02日

昭和天皇と二・二六事件

もしもだ、磯部ら二・二六事件の首謀者である青年将校らが、安倍による「美しい国」の惨状を見たとしたら、また、決起したであろうか?



2月28日、幸楽山王ホテル付近において、山田分隊 山田政男伍長のなしたる演説要旨

新聞紙の報道に青年将校が首相官邸の安倍を襲いなどと称しおるも、われわれは尊皇軍である、われわれは決して上官の命令で今回社会の賊物を殺したのではない、全軍一同が奮起したのである。われわれは今後といえども財閥キヤノン・トヨタ軍閥元老イシハラ政党自民湯公明創価学会共産党等の腐敗毒物を叩き殺し、そしてイラク人道復興支援北満守備のため出征するのである。これら国賊を全滅せしめないで出征することは実に心配である。
われわれはかかる国賊を叩き切ることは全く上御一人をして御安神遊ばさるよう、また国家皆様を安心して生活することができるように全く国家のために出動したるものである。
これを同じ皇軍のわれわれを友軍がわれわれに向けて発砲するとは何事である。
万一発砲する場合はもとより人を殺しているわれわれである。一兵卒となるとも戦うのである。
諸君は今度のことはよく知るまい。官房長官の塩崎斎藤はどうだ。頭に三十発も鉄砲弾を食らいその上首を切り落とされ頭は真っ二つになっている。
麻生太郎鈴木の頭にはこの山田がピストルで三発ぶちこんだ。
安倍首相は池の中に死体を叩き込まれたのだ。
これで終わるのではない、これからまだどしどし国賊は叩き殺すのだ。国家に対する国賊を皆殺しにするのが目的だ。悪いものがなくなれば良者が出て国家の政治を行うは当然だ。一日も早く悪い者を殺すのだ。国民の腹の底にある考えをわれわれが実行したのだ。
われわれの後にはなおわれらの意思を継いでくれる者があることは心中喜ばしいのである。


磯部浅一 行動記より

村中、香田、余らの参加する丹生部隊は、午前四時二十分出発して、栗原部隊の後尾より溜池を経て首相官邸の坂を上る。その時俄然、官邸内に数発の銃声をきく。いよいよ始まった。秋季演習の連隊対抗の第一遭遇戦のトッ始めの感じだ。勇躍する、歓喜する、感慨たとえんにものなしだ(同志諸君、余の筆ではこの時の感じはとても表しない。とにかく云うに云えぬほど面白い。一度やってみるといい。余はもう一度やりたい。あの快感は恐らく人生至上のものであろう)。

首相官邸襲撃時の快感……。
この感覚は、「よど号事件」の実行犯が平壌到着時に感じたものと同じものであったはずだ。
塩見率いる赤軍派は、満州事変を画策した陸軍軍人石原莞爾の『世界最終戦論』に影響を受けているとされている。
そして、「銃のみが政権を生み出す」思想は、70年安保の過激派に受け継がれ、日本赤軍によって実行されていった。

皮肉にも、三島が檄を飛ばしたクーデターは自衛隊によって実行されずに、その思想を背景とする暴力は左翼過激派に受け継がれていくこととなった。

さて、首相官邸襲撃に成功した磯部らは、香田、村中とともに陸相官邸に向かった……。
余が首相官邸の前正門を過ぎるときは早、官邸は完全に同志軍隊によって占領されていた。五時五、六分頃、陸相官邸に着く。
香、村、二人して憲兵と折衝しているところへ、余は遅れて到着す。余と山本は部隊の後尾にいたのと、ドイツ大使館前の三叉路で交番の巡査が電話をかけているのを見たので、威嚇のためと、ピストルの試射とを兼ねて射撃をしたりしていたのでおくれたのだ。官邸内にはすでに兵が入っている。
香田、村中は国家の重大事につき、陸軍大臣に会見がしたいと云って、憲兵とおし問答している。余は香、村は面白いことを云う人たちだ、えらいぞと思った。重大事は自分らが好んで起こし、むしろ自分らの重大事であるかも知れないのに、国家の重大事と云うところが日本人らしくて健気だ、と思って苦笑した。

ちょっとイイ話だね。さすが磯部浅一だけあって、あの最中に苦笑する余裕があったんだな。

昭和天皇は、反乱軍襲撃の報を聞くなり、「とうとうやったか。自分の不徳のいたすところだ。そして暴徒は、その後どの方面に向かった」と当時の農村の絶望的な貧困(娘の人身売買が横行)と腐敗した政財界を変えようと立ち上がった憂国の士を「暴徒」と決め付け、事件の終熄を命じた……。


天皇制社会主義の誕生は、昭和天皇によって幻に終わった……。

革命に破れ処刑された磯部の思いは獄中で記された
「天皇陛下、何と云う御失政でありますか。何と云うザマです。皇祖皇宗に御あやまりなされませ」という言葉にこめられている。

事件終熄後、天皇はこう語っている。
「事件の経済界に与えた影響、特に、海外為替が停止になったら困ると考えていた。しかし、比較的早く片づき、さしたる影響もなかった。本当によかった」(木戸日記)


磯部らは、死んでも死に切れんと思う。憂国の思いに対して、海外為替が気になっていた、なんて……。

(資料は、半藤一利著『昭和史探索・3』ちくま文庫より転載)

posted by 死ぬのはやつらだ at 09:52| Comment(3) | TrackBack(0) | 大日本帝国と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
渋谷の2.26観音へ、今年はまだお参りしていません。あさってにでもカンビール持って、お参りに行きます。南千住の回向院の磯部のお墓にもね。
Posted by natunohi69 at 2007年03月02日 18:03
そういえば渋谷区役所の近くに彼らが処刑された刑場があったそうですね。次回上京した際は忘れずにお参りすることにしましょう。
ハンズの近くには今でも「陸軍用地」の石標が残っているとか。
Posted by 亜凡怠夢 at 2007年03月02日 22:08
おおッ!磯部日記!日本人の書いたものでこれほど読む者が「燃える」ものはないでしょうな。
ちなみに私がイチバン好きなのはココ↓

「−−余は死にたくない、も一度出てやり直したい、三宅坂の台上を三十分自由にさしてくれたら、軍幕僚を皆殺しにしてみせる、死にたくない、仇がうちたい、全幕僚を虐殺して復讐したい。」
Posted by kamikitazawa at 2007年03月03日 02:43
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