三笠宮(88)が「大正、昭和から平成へ」という題で大いに語った。
内容は「よしりん派」諸君が信ずる内容とは大違いで、自ら陸軍参謀として従軍した経験から、日本軍を的確に「批判」。在日にも思いをはせ、プライベートなこともあからさまに答えている、大変興味深いものである。
内容はネタだらけで、特に重要と思われることを抜粋して掲載する。
●貞明皇后は宮さまにとってどんな母君でいらっしゃいましたか。
○皇后として、ほんとうに立派な方だったと思いますね。ただ一般の家庭と違って、親子という面と、親子でないような面もありましたね。九條家からとはいえ、皇室に入るのは、大変なことだったと思います。普通の家ではお姑さんがいますけれども、昔は女官の古手の方がお姑さんみたいな役回りで、私が生まれる前のことですが、皇太子妃の時代、精神的に非常に悩まれていたようです。たまたま重いチフスにかかられて、しばらく静養されている間に、精神的に持ち直されたということです。
【解説】まさに雅子皇太子妃のことである。歴史は繰り返すとはこのことだ。
(関東大震災について)
○ただ関東大震災を歴史的に見直しますときに、忘れてはならないことがあると思います。(中略)
もう一つ、そういった地震と火事によるパニック状態の中で、多くの在日朝鮮人が虐殺されたことです。震災の起きた九月一日の夕方には「不逞鮮人が襲ってきて、井戸へ毒を入れた」、あるいは「放火、強盗、暴行をほしいままにしている」というようなうわさが飛び交いました。また「社会主義者も加わっている」というようなデマ、流言が広がりました。その結果、殺害された在日の朝鮮人は、政府の発表によれば二百人余りということでしたが、実際はその十倍以上に及んだのではないかと推定されております。
こういうことは、日本と隣国間の民族的感情問題のも関係してまいりますので、歴史的に正しく見直すということが必要ではないかと考えております。
【解説】これはイシハラの暴走発言に対しクギを刺したものと思われる。宮さまは正しい認識をお持ちの方だ。拉致問題も含んでのご発言であろう。
(日露戦争に関して)
○日露戦争の話は「勝った、勝った」という話が多いわけですが、私は陸軍大学校の「戦史」の講義で、日本軍の武力がロシア軍よりも強力ではなかったということを聞きまして驚いたわけです。日露戦争の最初の戦いは、朝鮮半島の北側にあります鴨緑江あたりで起こり、日本軍はロシア軍を撃退して、奉天の線まで追いつめて行ったということになっています。しかし、ロシア軍が奉天の線まで下がったというよりは「日本軍の前進を少しづつ阻みながら、奉天の線まで退却する」戦術だったというのです。
最後はアメリカなどの仲裁で講和条約を締結しましたが、ロシアが条約に調印したのも、決して武力で負けたのではなくて、むしろ国内に政治的問題を抱えていたから戦いをやめたのだと。それを日本人は「勝った、勝った」で提灯行列をやって、戦勝に酔ったのだと思いますね。
それ以来、「日本は強い」「神風が吹く」というような誤った先入観が、一般の国民だけではなく、軍隊にも浸透していき、第二次世界大戦に入っていったのではないかと思うんですね。
【解説】靖国の遊就館のような、「戦争美化」を論破している。日露戦争に学ぶ国会議員の会がいかに馬鹿らしいことか。
(毛沢東の八路軍に関して)
私は陸軍の参謀として支那派遣軍総司令部におりましたとき、いろいろ見聞しました。例えばキリスト教の宣教師が山奥に入り、伝道に努めている。あるいは、当時、日本軍が相手としていました中国共産党の八路軍が北方の太行山脈などで日本軍と対峙していまして、岩山なのですが、どこからか土を運んできて農耕をしていました。日本軍は中国の民衆に対していろいろ問題を起こしていたわけですが、八路軍は婦女子に対する軍規が厳正でした。キリスト教の宣教師の情熱といい、八路軍の軍規厳正なることといい、そのおおもとはどこからくるのだろうかと、いつも考えておりました。
【解説】宮さまは日本陸軍の「モラルの低さを」嘆いており、昭和18年に支那派遣軍総司令部参謀として、一年間、中国に赴任。南京をたつ前に総司令部で将校教育をするよういわれ「支那事変に対する日本人の内省」という文書をのこしている。インタビューでは中国共産党軍のモラルの高さを強調。逆に日本軍が婦女暴行を繰り返した「最悪の軍隊」であることを述べられている。
宮さまは南京に赴任しているが、その時「大虐殺」の報告を受けていると思われる。
○第一線の指揮官が、「従来は攻めていくときに、みんなの家を焼いていたので、後ろから見ていても、自軍の第一線がどこまで進んだかわかった。ところが新しい方針が出て、家を焼いてはいけないということになったので、自分の部下がどこまで進んだかわからない」などと話していました。こういったことが結局、反日思想を培ったので、日本軍の従来のやり方を改めなければいけないと、日本政府が新しい方針を出したのです。私はその直後に南京に赴任しました。支那派遣軍総司令官は、中国全土の日本軍を指揮するので、私は参謀として各方面に行きまして、新方針を伝えました。中国人に対する軍規を厳正にしなくてはいけないということを申し上げたわけです。
【解説】昭和天皇と違い、戦場の現場を回った宮さまはその凄惨な現状を理解していた。「日本陸軍」に対する失望は、いかほどのものだったのだろうか?
最後にイラク戦争にかんして苦言を呈しておられる。
○やはりもう少し指導者が、歴史を考えてほしいですね。今の中近東の諸問題も、第一次世界大戦のときに、ヨーロッパの各国の軍隊が中近東に入ってきたときの歴史から考えねばなりません。そのときの各軍隊の勢力の境界が、今の新しい民族国家になってからの国の境になっているところもありますし。それは直線なんですね。中近東で国々の境が直線になっているところはなぜこうなったのかということを、考える必要があります。
それから、ヨーロッパの軍隊の引き上げ方ですね。後始末を全然しないで引き上げていった場所もあるわけです。そういうことが尾を引いて、いろいろな紛争につながっているのです。それから、中近東の昔からの歴史、民族、ことに部族の歴史、こういったものを研究しなおすことが、これからの世界に対処していく前提条件ではないかと思います。
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コイズミ、フクダ、シンゾー、イシバよ!宮さまの想いをどうとるのよ。素晴らしいリベラルな宮さまでした。