http://anarchist.seesaa.net/article/18290735.html
その阿片戦争を仕掛けた東條。
昭和天皇のA級戦犯合祀不快メモ以降、東條の孫がテレビでウザイな。
阿片で儲けた祖父のどこが「英霊」なのか?
覚せい剤を日本に密輸している北朝鮮よりも酷いぞ。
それと、日中国交回復に寄与した大平正芳と意外な阿片の関係を暴いてみよう。
支那事変の発端となる盧溝橋事件≠ェおこる数ヶ月前、1937(昭和12)年2月ごろ満州国の首都新京にあった満州中央銀行=i紙幣を発行する権限を有する発券銀行)と満州国政府経済部≠ゥら密命をうけた金融工作員数名が満州から密かに内蒙古へ送り込まれた。
工作員に与えられた任務は内蒙古とそれに隣するチャハル省その他の省にある銀行のいっさいを秘密のうちに調査することであった。
調査内容は、それぞれの銀行の勢力範囲と発行している紙幣の数にその紙型印刷機の所在にも及んでいた。さらに、同地域へ日本軍が侵略し、これら銀行を一挙に押さえ日本軍による新銀行を創設せんとするための方策の計画と案の作成となっていた。
なぜ、中国と戦争状態になっていないときに、金融工作員を送り込んだのか?
満州の関東軍の任務は、満州国を完全におさえ対ソ戦への準備だ。ところがいざ対ソ戦を発動したとき後方すなわち支那から攻勢をとられたら戦争にならない。そこで対ソ準備のための北支(華北地方)と蒙彊(モウキョウ)地域をおさえておく必要がある。そのためこれらの地域を制圧し軍事占領しておくというのが理由の一つ。完全せいあつのためには銀行もおさえておくことが必要だという発想だ。
いま一つは阿片だった。蒙彊地域は支那でも有数の阿片の生産地だった。これを手に入れようとする戦略というか政略だった。阿片は君も知っているように世界の禁制品だが金になるからね。その金で前に話したと思うが軍備拡張をと考えたのではないかな。(千田夏光著『「聖戦」の名のもとに』労働旬報社より)
日本が建国した傀儡国満州≠維持する事は、当初に考えたほど容易ではなかった。地下資源は無きに等しく、土地も痩せており雑穀しか取れなかった。輸出品の多くは大豆であった。そこで関東軍は、金になる阿片に注目した。
満州事変の3年後から北平(後の北京)に日本陸軍特務機関、調査と謀略を担当する参謀本部直轄の機関で働くようになり、それから支那事変後、蒙彊地区に送られてきたという男は、次のように証言していた。
軍人はさておき、いま蒙彊地区で大きな顔をしているのは満州中央銀行や満州国政府から乗り込んできた日系官吏や日系謀略員ばかり。俺など外様でひたすら酒を飲むのが仕事だよ。
筋書きを書いたのは昭和12年(1937)初頭に関東軍憲兵司令官から関東軍参謀長になった東條英機中将と日本の大蔵省から選ばれ送り込まれて満州国の国務長官となった星野直樹、それをとりまく満州国間島省長の金井章次、満州中央銀行の山田茂二らだよ。(同上より)
盧溝橋事件がおきると、ただちに日本政府が「不拡大の方針」を決めたが、ひたすら対ソ戦を任務としていた関東軍が、おかしな声明を出す。
『暴戻なる支那第29軍の挑戦に起因して今や華北に事端が生じた。関東軍は多大の関心と重大なる決意とを保持しつつ厳に本事件の成り行きを注視する』なるものを、いっせいに新聞へ掲載させた。
盧溝橋での最初の銃撃の犯人は、当時彼が所属していた北平特務機関でもわからなかった。ところが関東軍は犯人が支那第29軍であると断定し、事と次第によっては出撃するぞと脅しているのである。
「もっとおかしいのは、この声明を出すと同時に東條関東軍参謀長が参謀副長の今村均少将、高級参謀の富永泰次大佐、参謀でかずかずの謀略工作(張作霖爆殺事件)で有名な田中隆吉中佐の3人を急遽東京に派遣しこの事件を利用し一挙に華北全域をおさえるべきだ≠ニ各方面に工作させたことだ」(同上)
東京の参謀本部を無視し、独断で関東軍は戦線を拡大する。大元帥閣下であった昭和天皇の不拡大の意向は無視され、日本は中国との全面戦争に突入していく。
天皇を無視しても誰も責任は問われず、天皇も軍の暴走を追及することはなかった。
http://ch.kitaguni.tv/u/5028/%a1%da%be%bc%cf%c2%a1%db%a4%ca%a4%bc%c6%fc%cb%dc%a4%cf%cb%bd%c1%f6%a4%b7%a4%bf%a4%ce%a4%ab%a1%a9/0000256071.html
「さすがの俺も驚いたことが2つあった。
その一つは突入した兵隊が街に潜む残敵とまだドンドンパチパチやっている中を満州中央銀行∞満州国政府機関≠ゥらえりすぐられた金融工作員が走り回っていることだった。兵隊でもないのが何を目的に走り回っていたかというとチャハル省政府直営の発券銀行であるチャハル商業銭局の接収だ。それと紙幣印刷機に紙型さがしなのだな。印刷機や紙型さがしはうまくいかなかったらしいということはすぐわかったが、彼らは、あっという間に察南銀行≠ネる看板をチャハル商業銭局の建物にかかげていった。はいこれで新しい日本のというより関東軍の息のかかった銀行をつくりました、それも発券銀行ですよ、だからチャハル商業銭局が発行してきた紙幣はもう使えませんよ。使えるのはこの察南銀行の紙幣だけですよ、ということだな」(同上)
またこの察南銀行の紙幣がスゴイ。満州国は建国のさい押収した、張作霖・学良父子が経営していた東三省官銀行≠フ膨大な紙幣に満州中央銀行≠フスタンプを押し使用していたが、それをまた訂正して察南銀行
のスタンプを押して使用したのだ。
いっぽう銀行をつくり新紙幣を発行するために、傀儡政府が作られた。
「2番目に驚いたのは、これらの発足記念式典に関東軍参謀長東條英機が出席したことだった」
というのは、それは筋書きを書きここまで持ってきたのが東條英機その人であったことと、彼が多倫占領以来第一線の作戦指揮をしていたことを意味するからだ。もっと言えば、この蒙彊地域侵攻兵団が東條兵団≠ニ呼ばれた事の意味がわかった。侵攻兵団の指揮を彼がとっていたことがわかったということだった。
しかし彼のポストは関東軍の司令官ではない、参謀長である。軍司令官に兵を指揮する資格はある、つまり統帥権があるが、参謀長には軍隊を指揮する権限は無い。その権限の無い男が兵団を指揮してここまでやってきたことへの驚きだった。(同上)
つまり、東條英機は統帥権を干犯するという、大罪を犯した国賊であったのだ。
その後、東條兵団はさらに南下。破竹の進撃で次々と占領していく。そして、これまで占領した土地に作った傀儡の自治政府すべてを解散し蒙彊連合委員会≠ニいう蒙彊地域の形だが中央政府をつくり、察南銀行≠蒙彊銀行≠ノしていった。
日本政府は、1938(昭和13)年12月16日に「興亜院」を発足させた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E4%BA%9C%E9%99%A2
総裁は近衛文麿総理、副総裁は陸軍大臣板垣征四郎中将、海軍大臣米内光政大将、外務大臣有田八郎、実際の運営は総務庁長官柳川平助中将である。(A級戦犯が含まれている事に注目)
その下に「蒙彊連絡部」を設置、そこには大蔵省から大平正芳(後の日中国交回復時の田中内閣外務大臣)、農林省から伊藤正義(戦後に首相指名を断ったことで有名)など将来大臣級の大物が送られた。
彼らはただちに「蒙彊土薬股粉有限公司法」をつくっていった。「土薬」とは阿片の事。有限公司とは株式会社である。
零細農家で栽培されていた阿片を、大企業の資本を投下し大規模に生産していこうというのが狙いであった。
1938(昭和13)年の蒙彊銀行貿易統計によれば、輸出品の第1位は阿片で4300万円。なんと、今の貨幣価値に換算すると3兆円もの金額にのぼっている。それ以降の、本腰をいれ阿片の生産と輸出にかかってからの金額はどれほどのものだったのだろうか?
膨大な数の中国人が犠牲となったのが想像できよう。
御手当ては平時に倍して宜しい。山海珍味の御馳走になる機会が多く、芸者連からも持て囃される、時の御時世で何処へ行ても幅が利く、支那に行けば独裁王、と云う有様だから有頂天になり増長し金や女の毒が身に廻りて腐敗堕落の傾向を辿り居るかの憾あるは、近時における将校一部の実情にして今にして厳戒せずんば全軍を毒するに至るべし。(陸軍大将 宇垣一成日記39年8月7日付けより)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%9E%A3%E4%B8%80%E6%88%90
見知らぬ中国の地にて、貧農出身の兵士たちが戦死している時に、軍の幹部たちは酒池肉林に明け暮れ、堕落していった。
聖戦と呼ばれた、中国との戦争は阿片に私服を肥やした軍人とそれに飛びついた大資本の麻薬戦争であった。
昭和18年のことになるが蒙彊銀行から大平正芳が課長をつとめた興亜院蒙彊連絡部経済一課に出向した男が、上海へ出張したとき三井物産上海支店からゲストハウスに招待され日本国内では絶対的ご禁制だった白系ロシア人嬢のヌードショウを見せられたり、華中から華南の阿片売買を一手におさめる宏済善堂から酒池肉林の接待ののち自家用飛行機で北平までおくられた事実はその一端を物語るものとされている。(同上)
1943(昭和18年)9月。時の首相となっていた東條英機は「大東亜薬品会議」を3日間開催する。出席者は蒙彊地域関係者、華中、華南から仏領印度支那(ベトナム)、ビルマなどで阿片生産に従事しているセクションの担当者。薬品会議とは名ばかり。実態は大東亜阿片会議だったのである。
さらに興味をひいたのは蒙彊組には帝国ホテルが宿舎としてあてがわれていたことに加え、当時はガソリン事情が逼迫しタクシーはなくなり民間自動車はバスまで木炭や薪を焚きそのガスでやっと走っていたのに、三井物産と横浜正金銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)は彼らのため「どうぞ自由にお使い下さい」とガソリン車を提供していたことだった。横浜正金銀行にいたってはすべての料亭が営業停止を命じられているのに新橋の「金田中」に蒙彊組を招待。上海から飛行機で取り寄せた極上スコッチ・ウィスキーの瓶を並べたという記録のあることだった。(同上)
1945(昭和20)年8月までの蒙彊地域での阿片による収益は当時の金額で4億2千万円を超えていた。戦艦大和の建造費が1億3千万円と言われていた時代の数字である。その金額に匹敵する阿片はゆうに8千万人の人間を阿片中毒にすることのできる量であった。
東條英機は、1941年大東亜戦争開戦の年に、甘粕正彦から満州の阿片利権の資金を得て有力企業や銀行、高級官僚に盛大な付け届けを行い、用賀に800坪の豪邸用土地を購入している。
ただし、戦争中の物資物資欠乏により30坪以上の家を新築することを禁止していたので、建てたのは制限ぎりぎりの小ぶりの家であった(原田泰「戦争を阻止する民主主義と自由の力」論座9月号108頁)。
阿片で数多くの中国人民を廃人とした張本人の東條。戦陣訓で日本兵に投降することを禁じた東條は、卑怯にも自ら自決と見せかけて銃弾を外し、米軍の捕虜となり絞首刑となった。
一方、興亜院蒙彊連絡部の実質リーダーとして阿片ビジネスにかかわったクリスチャン大平正芳は、戦後の国交回復後に、北京に地上14階地下1階、建坪延べ8万平米の「日中友好病院」を建設させた。79年12月の首相としての訪中時には、中国医学近代化促進のためと160億円を無償供与。これによって、中国共産党からは阿片の罪を問われる事は無かった。
阿片王の大平正芳は1980(昭和55)年6月12日、昭和天皇より大勲位菊花大綬章を授与されている。
なお、蒋介石は日本政府が中国侵略期間中に内蒙古で阿片を生産し北平上海に輸送販売し中国毒化政策を行った事実を、東京裁判にて訴えようとしたが却下されている。
中国で阿片商売に暗躍した特務機関の関係者は、朝鮮戦争勃発後、米帝の日本における防共活動に活躍し、数々の謀略に関わったと言われている。






母によると、明るくオテンバな妹と比べて兄はどちらかというと引っ込み思案で、
大人しい少年だったとのこと。だからどうしたと言われればそれまでの話ですが、
その後、幾重にも屈折せざるを得なかった彼女のあの能面顔をテレビで見るにつけ、
どうも複雑な気持ちになります。今アレをここぞとばかり担いでる連中こそ死ねばいいのに。