勇士の遺児諸君に興ふ
軍事保護院総裁 陸軍大将 本庄繁
全国から集まった3,256名の遺児の皆さん、よく来ましたね。皆さんもご承知のとおり、今やわが国威はいよいよ世界に輝き、ここに意義深い紀元二千六百年を迎へました。この輝かしい年に護国の神として、1億国民の尊敬を集められるお父さんとお会いできる皆さんは、何と幸福なことでしょう。みなさんのお父さんは、お国のためにあの果てしなく広い大陸で、実に勇ましく戦って、護国の英霊となられたのであります。
その不滅の勲功のお陰で、新東亜建設の大きなお仕事はすっかり礎が固められ、日本を疑った支那人も次第にめざめて、新中央政府が生まれて、日本としっかり手を握り、東洋平和のために、力強い第一歩を踏み出すことになったのであります。皆さんはこのえらいお父さんを持ち、更に限りない天皇陛下の御仁慈に浴して、その名誉と光栄をしっかり抱き、父英霊のお護りを信じて行けるのです。この力強い信頼こそ、皆さんを立派に成長させるものと私は信じます。戦没者遺族を奮起させるのは、この厚い御仁慈と、靖国神社であります。従って皆さんを靖国神社へ参拝させることは、皆さんのため、遺族のため、また前線将兵のため、その家族のために、誠に大切なお仕事であります。遺児諸君も、故郷ではさびしいこともあるでしょうが、靖国の御社に祀られる神様をお父さんに持つ3千余名が、同じ場所に揃うというだけでも、おのづと勇士の子としての勇気がわくのですから実に感激深いものがあります。どうかこの感動を一生心に刻み付けて、えらい人になってください。この立派なお国に奉仕するためには、どこまでも強く正しい人でなければなりません。お父さんの英霊がお国に命を捧げたことを思えば、どんな困難も突破できるということをよく心の中において、心身を鍛えてください。皆さんが元気で参拝を終へ、お家で待っている方々に、この日の感激を伝えられるように心からお祈りします。(昭和15年3月26日付東日小学生新聞)
軍事保護院とは、1938(昭和13)年、厚生省外局の傷兵保護院の名称で発足、翌年に改称されて、傷痍軍人の医療・訓練・職業指導・就職斡旋などをおこなっていた。
本庄自身は、満州帝国の傀儡政府を樹立する陰の立役者と言われている。敗戦後に自決している。
この頃、毎年のように、全国から遺児が集められ靖国神社を参拝している。それだけ社会で戦争遺児が増えていた。裏を返せば、日中戦争の戦死者が増えていたのである。
子供達は「遊就館」も見学している。「遊就館」の名のおこりは、靖国神社のHPになにも記載が無いので説明しておこう。
http://www.yasukuni.jp/%7Eyusyukan/index.html
靖国関係者の嫌いな「中国」の古典にある「遊必就潔」「遊必就士」という言葉からで、「良い人間と交わる」「良い人間について学ぶ」という意味である。
それにしても「御仁慈」とは難しい言葉を、当時の小学生は理解していたのであろうか。
「いつくしみめぐむ」を超えた「悲しみ」こそが、子供達の心の奥底にあったと思うのだが。





