
1911(明治44)年9月、斬新な文芸誌「青鞜」が誕生した。編集者がすべて女性だったこの画期的な雑誌は飛ぶように売れたという。創刊号の1000部は即完売。購読申し込みが全国の女たちから殺到した。
代表のらいてう≠ェ数年前に森田草平という男と心中事件を起こし、その顛末が小説『煤煙』として朝日新聞に連載されていたのだから、世の中が注目した。
しかも、その中で女たちの自我の目覚めを″b轤ゥに宣言したのだから、なおさらである。すでに女流歌人として有名となっていた与謝野晶子は、らいてう≠ノ『青鞜』への参加を依頼されたが、「女はだめだ、男にかなわない」とらいてう≠失望させたが、「そぞろごと」を創刊号によせている。
山の動く日来る
かくいへ云へども 人われを信ぜじ
山は姑く 眠りしのみ
その昔に於て
山は皆火に燃えて 動きものを
されど、そは信ぜずともよし
人よ、ああ、唯 これを信ぜよ
すべて眠りし女子
今ぞ目覚めて動くなる
らいてう≠育てたのは近代的な家庭主義であった。
父、平塚定二郎は明治憲法の作成にも協力した会計監査院の官僚。母のつやは夫の勧めで洋装で女学校に通学。小学生の頃に引っ越した家には、シャンデリア、裸婦の絵画、洋書の棚、テーブルと椅子の生活であった。
ところが、1890(明治23)年に教育勅語が発布(未だ一夫多妻制であったのに)、日清戦争で世の中が変わりつつあった頃、平塚家の内情も様変わりする。裸婦の絵画が教育勅語の額に変わる。テーブルや椅子も片付けられ、洋装にしていた母は、裾を引く着物姿にかわっていった。もちろん学校に行くことはなくなり、良妻賢母よろしく家事をする女郎と化していた。
政府高官の父は、明治政府の命令に順応して、左右に両極端に突っ走る、誠にあっぱれな忠臣野郎だったのであった。
そんな両親に反発したらいてう≠ェ出来上がるのは当然の成り行きと言えよう。そして、『青鞜』を出版することとなった。
女性の自立≠訴えた『青鞜』を、当時の新聞は新しい女≠ニ称して面白おかしく取り上げていた。なんでも「女」という字に「かわった文句」を重ねてはやしたてていた(いまでも日本のマスゴミはそうだが)。
そこで、らいてう≠ヘ「新しい女」を1913(大正2)年『青鞜』1月号紙面にて宣言する。女流文芸誌から婦人問題に目覚め£E皮したのだ。
新しい女は「昨日」に生きない
新しい女は最早しいたげられる
旧い女の歩んだ道を黙々として
はた唯々として歩むに堪へない
新しい女は男の利己心の為に無智にされ
奴隷にされ、肉塊にされた旧い女の生活に満足しない
新しい女は男の便益のために造られた
旧き道徳、法律を破壊しやうと願っている
けれど旧い女の頭に盗り付いた憑いた色々の幽霊は
執拗に新しい女を追ひかけてくる
「今日」が空虚であるとき
そこに「昨日」が侵入してくる
新しい女は日々に色々な幽霊と戦ってゐる
油断の刹那「新しい女」も旧い女である
自分は新しい女である
太陽である
唯一人である
少なくともさうありたいと日々に願ひ
日々に努めている
らいてう≠ヘ性の先駆者でもあった。『青鞜』に憧れて参加した男装の尾竹紅吉とレズビアンの関係にあったと言われている。
そして「若い燕」を世間に広めたのもらいてう=B5歳年下の妻子ある奥村博と不倫関係となった。奥村は嫁さんにらいてう≠ニの関係を責められ、らいてう≠フ前から妻が「水鳥たちが遊んでいるところへ若い燕が飛んできて池の水を濁し、騒ぎが起こった。思いがけない結果に驚いた若い燕は飛び去る」と、代作した書置きを残し消え去る。らいてう≠ヘ「燕ならまた、季節がくれば帰ってくることでしょう」と書き送る。これが、年下の恋人のことを「若い燕」ということとなった始まりだとされている。最近は死語となっているが……
そして、2人はお互いを忘れることが出来ず、ついに日本史上初の事実婚をすることとなる。1913(大正2)年のことである。
らいてう≠ヘ博との同棲(事実婚)をするにあたって質問状を渡している。その中には、「結婚も同棲も望まず、最後までふたりの愛と仕事の自由を尊重して別居を望むとしたらどうなるのか」という、いまの世でも強烈な内容も含まれていた。博がどのような回答をしたのか知らないが、とにかく2人の共同生活は、「結婚制度への挑戦」として、世論の強烈な非難を浴びながらスタートした。「新しい女」を許す土壌は、現在の日本でも未だ少数である。
2人の生活は、世間の注目を浴びるなかスタートしたが、年下の博は売れない絵描き。収入はらいてう≠フ『青鞜』にかかっていたが、その大半も絵の具代に消えてゆく始末。まさに元祖だめんず・うぉーかー≠ナもあったらいてう≠ナあった。しかも、らいてう≠フ妊娠によって「野合のふたりに私生児」と新聞に叩かれてしまう。彼女は精神的に追いつめられてしまう。
そこにやってきたのが、伊藤野枝である。恩師であるダダイストの元祖辻潤
を頼って家出上京し『青鞜』の編集者となった。野枝は辻と結婚するが、これも甲斐性の無い男で、一日中尺八を吹いてばかり。しかし、野枝はらいてう≠ニは違って、当時20歳の野枝には若さとバイタリティーに満ち溢れていた。大雑把な性格が幸いしたのかもしれないが、とにかくらいてう≠謔閧ヘ精神的に前向きな野枝であったのだ。
疲れきっていたらいてう≠ヘ、『青鞜』の編集を野枝に譲ることとなる。1915(大正4)年のことであった。
しかし、『青鞜』は1916(大正5)年2月無期休刊となり消えていった。アナーキストの大杉栄との出会いが原因である。
大杉は野枝に、次の条件を付きつけた。
「お互いに経済上独立すること」
「同棲しないで別居の生活を送ること」
「お互いの自由(性的のすらも)を尊重すること」
野枝はそれまでの辻との生活をすべて投げすてて、大杉との新生活へ飛び込んでいった。
1918(大正7)年、らいてう≠ニ与謝野晶子らとの間に「母性保護論争」が起きる。
ともに母親の立場から、らいてう≠ヘ、「母は生命の源泉であって、婦人は母たることによって個人的存在の域を脱して社会的な国家的な存在となる」「自分の子どもでも、その社会の、その国家のものです。子どもの数や質は国家社会の進歩発展に、その将来の運命に至大の関係あるものです」と位置づけ、母性を国や社会は保護すべきだと主張した。
なんということだろう。あれだけ女性解放の旗振り役であったらいてう≠ェ、「子どもは国家のもの」と位置づけた発言をするとは……。ジェンダー攻撃の旗手である自民湯の山谷えり子の主張のようだ。
これに反対して、晶子は、「私は、子どもを物とも道具だとも思っていない。一個の自存独立する人格者だと思っています。子どもは子ども自身のものです。平塚さんのように『社会のもの、国家のもの』とは決して考えません」と批判し、女性が出産育児で家庭に留まらず、外で働き経済力を持ってこそ、女性も母性も自立できると主張した。
案の定、らいてう≠フ「子どもは、その社会の、その国家のもの」とする考えは、昭和の戦争の時代に入り、国策に母子を従属させることとなる。
『青鞜』の終焉とともに、戦前の女性解放運動は、事実上、頓挫することとなる。
1923(大正12)年、関東大震災のさなか、野枝と大杉は子供とともに、憲兵甘粕大尉に虐殺されてしまうのだ……
らいてう≠ヘ、戦後も婦人運動で活躍し、1971(昭和46年)5月24日、85歳で亡くなっている。意外にも、彼女は夫のために建てた墓、奥村家の墓(神奈川県川崎市・春秋苑)に一緒に入っている。
http://www.asahi-net.or.jp/~PB5H-OOTK/pages/H/hiratukaraicho.html






与謝野晶子は並外れた才能と体力に恵まれていましたが、当時の一般的な女性が外で働いても、大した仕事はありませんでした。
また、夫が家事を手伝ってくれるわけでもなく、余計に辛い立場に陥ったことでしょう。
これは現代の「少子化対策」などにも通じる問題ですね。
http://ref.pinoko.jp/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=26641
売春防止法制定の時には日本基督教婦人矯風会と手を結び吉原売春婦組合を潰し。売春婦の労働環境を、さらに劣悪なものにすることに加担してしまいました。
あのまま売春婦の組合運動が広まり当時の最底辺女性たちが意識革命をしていれば、どんなに女性の社会環境が変っていたかと憤ります。
矯風会について↓
http://rosf.net/column/jidou/kyou02.htm
市川房江とともに花柳病対策などをやったようだが、赤線廃止運動とともに、そこに働いていた売春婦の自立に役に立ったのか甚だ疑問だ。
大政翼賛会に取り込まれた経緯もあるしね。