艦上偵察機「彩雲」
40代の我々の世代では、タミヤの1/50プラモが思い出される。胴体の半分が透明パーツで出来ており、内部構造が見えるものとなっていた。
http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/cl-pln/saiun.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A9%E9%9B%B2_(%E5%81%B5%E5%AF%9F%E6%A9%9F)
彩雲の高速性能を表す有名な言葉として
「我に追いつくグラマンなし」というのがあるが、その実態は、故障続発の役に立たない代物だったとは、素晴らしいスバラシスギル……
三野正洋著『続・日本軍の小失敗の研究』によれば、カタログ・スペックは素晴らしい性能の「彩雲」であった。
しかし、生産が始まると、トラブルが続出した。構造が繊細すぎて、生産工場がその要求をこなしきれない。また「誉エンジン」の取り付けの際には、スペースに余裕がなく、既存の工具が使用不能であった。
いずれも機体設計の際に、少しでもスペース効率を良くし、軽量化(エンジンの出力が低いので機体を軽くして速度を出そうとした)をはかった手法が裏目に出てしまった。
これにより量産に入っても、手直しの連続で、工場内は混乱を極めた。
続々と前線に送られてくるはずの「彩雲」は、待てど暮らせどやってこず、またようやく届けられても、故障続きで、整備を抜本からし直す必要が生じていたのだ。
「彩雲」の場合、工場側が完成と認めた後、海軍に引き渡すまでの間、平均して125時間もかけて調整修理を必要としていたのだ!
あまりの故障続出のために、メーカーの中島航空機(いまのスバル自動車)が完成したといっても海軍が受け取らないのだ。ちなみに、同時期(1944年前半)の米軍は、単発機では完成後6〜7時間、多発機17〜20時間で引渡しが完了している。
さて、完成した「彩雲」の試運転に時間をかけているうちに、別の大問題が生じていた。
当時のエンジンの実質的な耐用時間としては、工場側で300〜400時間、海軍ではその半分ぐらいを見込んでいた。
「彩雲」は工場での試運転で125時間もかけていたので、エンジンの耐用時間の大部分を、前線に運ばないうちに使い切ってしまっていたのだ。こうなるとエンジンは、出撃前に耐用時間に達してしまい、いざというときに役に立たなかったのだ。
このため、基地に配備された「彩雲」の稼働率は、日本本土が空襲を受ける以前でも20%前後に過ぎなかった。
また生産された約400機のうち、一応使用に耐えられると判断されたものは、1944(昭和19)年末の時点で3分の1しかなかった。
兵器に優先されるのは、信頼性と生産性である。とくに戦争時には、この2つが優先事項となるが、大日本帝国は、戦争が激しくなればなるほど、逆の方向である「性能第一主義」に走ってしまった。
しかも、戦時中の日本は、工場にかならず、軍の監督官を派遣し、管理と運営に当たらせた。彼らは、軍人であるので、製造のことなどまったくの素人である。
工場の効率的運営、適正な人員配置、部品の迅速な供給といった種々の事柄は、そのまま生産力に結びつくのであるが、軍人である監督官は自分の無知、能力不足を棚上げし、すべてに介入した。目標とされた生産数の達成のみが、彼の目的であり、品質に関しては無視する。機械効率を良くしようとする努力を、手抜きであると非難する。有能であっても自分の気に入らぬ人間は、職場から外し、すぐさま軍隊に召集する。
中島飛行機の「彩雲」生産現場でも、これらの無法が横行したことは容易に想像できよう。
『性能第一主義は機体、発動機、プロペラなどの組み合わせを、それらに実用性があるとないとに拘らず、性能上最も優秀なものを選んでしまい、とにかく安全に飛べる飛行機を早く大量に作ることを忘れていた。その結果、競争用の飛行機や展覧会への出品機ならともかく、戦争に役に立たない飛行機が出来てしまった』
『わが国の設計は生産技術を無視した場合が多く、余りにも理想に走り、生産に当たってはこれを実現化することが困難である場合が多々見られた。(中略)この設計と生産技術の不均衡が、飛ばない飛行機が続出した大原因である。整備も取り扱いも不良になったが、根本的な原因はここにあった』
(日本航空学術史1910-1945より)
「彩雲」は、その典型的な失敗例であるが、他の傑作機と言われている日本機も、そのほとんどが「迷機」なのかも知れないな。
エンジン内に部品が落ちてるという工場の品質管理とか、高オクタン燃料が必要なのに粗悪な品質のガソリンしかなかったとか。
今の北の国が自前で(他の国のパテント使って)超音速戦闘機作ったようなもんじゃない?(笑)
大戦中期以降の「高性能」機は、ほとんど同じ状態でしょう。別にこの機体に限ったことでは・・
設計サイドの責任も大きいが、無理な仕様を要求した軍部の責任も大きいでしょう。
製造ラインと職工配分も、日本軍の敵は日本軍と言われた通り、陸海軍間で無意味な張り合いで混乱したようですし。
疾風に関しては、当たりの機体はカタログスペック以上の性能と公式に評価されてるんですが、製品にバラツキが大きすぎたのは間違いありません。
まあ、プラグやら被覆電線にオイルシールごときをまともに作れない国家が戦争するな、ということですな。
貧乏国ならおとなしく蒸気機関車かトラックでも作ってりゃいいんだっての。
もちろん大戦中でも!
それなのに、日本の失態だけを嬉々として書きたて、さも外国は成功ばかりしてきたように書く。
困った人だ。
で、飛ばないという部隊の整備員がその部隊で教育を受けた時、あたりまえの整備を教えてもらって帰ったわけです。
しかし、彩雲が戦術的にほとんど無価値だったことをあげつらうならともかく、当時の軍部と同様のあさってむいた批判です。
彩雲のいい加減な悪口ばかり、うんざり、売国奴は日本がいやなら出て行け!
>困った人だ。
日本に致命的な影響がない限りは、海外の失態などどうでもいいことなのですが。しかし、日本の失態は、直ちに日本国民に降りかかってくることもあるので、きちんと指摘しておかねばならない。
>売国奴は日本がいやなら出て行け!
自国に対して贔屓の引き倒ししか出来ない人間の方が余程売国奴のように思えるのですが。
厚板主翼は世界初の発明、ボーイングも真似た。同じ馬力で疾風より優速、秀逸な空力設計。
「懐中電灯事件」海軍官僚はアホだった。
だって西洋のやつらはそうさせてくれなかったからねえ
黄禍論にまみれた奴らにとって、次第にヨーロッパ並みになって力を付けていく日本は将来邪魔になる存在で、どちらにしてもいつかの機会に日本は潰しておきたかった
そもそも平和な空気ですらなかったのだよ
だから日本の航空技術者は不十分な技術力でも敵さんに何かで対抗できるようにしたまで
どちらにしろ何かは削らねばならなかったのだ
あとこの時代の状況も知らないで平然と文句ばかり垂れているがあなたやブログ主は技術者に対する敬意がない 其処まで言うなら自分で作ってみたら如何か
さぞかし技術を御持ちであろうし、平和で技術の進んだ時代に於いてならばこの程度ならば、航空技術畑で少し修行すればできるであろう
実際戦後以降の平和のお蔭で技術力も伸びたが、これは戦前の技術者の力も大きいのではないか
そもそも戦争が無ければゆっくりと技術を延ばす余裕もあったし、あまり優秀とは言えない兵器を大量に作らずに機関車などに手が回せた
本当に、世界史の背景でも眺めてからコメントして頂きたい 閑人の私風情に呆れられるようなことを書いて恥ずかしくないのですか
われわれに武器を執らしめるものはいつも敵に対する恐怖である。
しかもしばしば実在しない架空の敵に対する恐怖である。
(芥川龍之介『侏儒の言葉』)
>どちらにしろ何かは削らねばならなかったのだ
搭乗者の生命もな。
他にやる事山ほどあんだろ。どうも海軍の場合、高価なオモチャを欲しがる糞ガキみたいなイメージだわ。陸軍のキ83とか、ああいうマルチロールを開発するような発想がなかったんかね?
軍需省の役人体質は言うに及ばず。奴等は自分達の成果のみ。
ウルシー環礁での「我に追いつくグラマンなし」とか343空での偵察飛行とか、彩雲は末期に作られた機体としては良くできた機体だと思ってました。