6月3日付日刊ゲンダイのコラム「総中流崩壊 ネオ階級社会ニッポン」で作家の林信吾氏が、品のないハゲ藤原の「国家の品格」を「言葉の端々に、エリートをもっと大事にしろという考えが透けて見え、はっきり言って始末の悪い本」だと断罪している。戦国時代、大きな合戦でも戦死者は意外に少なかったということをご存じだろうか。もちろん、刀や槍を用いての戦いと、ミサイルが飛び交う現代の戦争を同一視することはできないが、理由はそれだけではない。
実は、形勢不利だとみるや、さっさと逃げ出す武士が多く、負ける時はあっという間に総崩れになるため、かえって死者が少なかったのである。逃げた理由は簡単で、功績を挙げれば恩賞や加増(領地が増えること)といった見返りがあるが、逆に戦死した場合は、遺族に対する保障などなかったからだ。わが国の武士が、昔から死を恐れず滅私奉公したというのは、大いなるフィクションである。
(中略)
数年前から、武士道というのがブームになっている。今年は藤原正彦氏の「国家の品格」という本がベストセラーになった。この本の中でも、「惻隠の情」であるとか、武士道の教えが紹介されている。
教養主義の復権を主張したいようだが、言葉の端々に、エリートをもっと大事にしろという考えが透けて見え、はっきり言って始末の悪い本だと、私は思う。
藤原氏をはじめ、武士道を称賛する人たちの多くに共通するのは、世襲の特権階級であった「武士」と、抽象的な存在である「サムライ」の区別がついていないのである。
くどいようだが、戦国時代の武士が戦場に赴いたのは、なによりも自身の利得のためであった。だからこそ「死んで花実が咲くものか」というのが共通認識で、命がけの働きに報いてくれない君主など、さっさと見限って当然だった。「七度牢人(浪人)せねば一人前の武士に非ず」とまでいわれたのだ。
それが、封建制が確立し、武士が戦闘要員から官僚に変質した。そればかりか、親の職責と収入がそのまま世襲されるようになったのである。
努力して地位と収入を得たのではない、ということに対する、一種のエクスキューズとして、滅私奉公というモラルが打ち出されてきた。これが武士道の本質である。
したがって、「武士道を復権させれば日本人がモラルを取り戻すことができる」などというのは、「世襲エリートのために大衆は滅私奉公しろ」という、ネオ階級社会の論理に過ぎない。
元々農民の足軽が殆どでしょ?
男惚れして…ってのはまぁもの凄いヤクザの親分さんとその子分と一緒だよね
あそこに描かれた武士道を、そのままやりたい馬鹿がいるわけないが「正気にては大業ならず武士道とは死狂いなり」ですよ。
ただし、その頃から殉死や討死などで主君のために命を捧げる武士がいたのも事実。
そして、俗に言われる「武士道」の成立は江戸期に入ってから。江戸期の武士道を元に語っているのに、それ以前の武士は違ったなどとして批判するなんて笑止。
歴史はきちんと調べてから書いてもらいたいものですな。
さて、以前のエントリのコメントに、「日本人なら、謙虚な心を忘れないことです。武士道であるところの惻隠の情を忘れずに。苦笑」などと書いたのはどこの誰ですか?
日本だけに「惻隠の情」を要求し、北朝鮮には求めないという偏りぶりでしたが(「惻隠」は論語がオリジナルなので、儒教の国ならその情を持っていて当然なのに)
それって、日本人に金正日を愛せと言っているようなトンチンカンなものでは???
「町人の武家談義」的な御伽噺を無邪気に信じる御仁たちに、南條範夫の『残酷物語』を読ませたい。
>したがって、「武士道を復権させれば日本人がモラルを取り戻すことができる」などというのは、「世襲エリートのために大衆は滅私奉公しろ」という、ネオ階級社会の論理に過ぎない。
「武士道」だの、「日本精神」だのが声高に唱えられる時代にはロクなことが無い。結末は「一億玉砕」だ。