いろいろ原因はあるのだが、一番は政治への失望だ。あれほど鳩山さんのもとで行なわれた憲政史上初の投票による政権交代。その感動は投票日前日の池袋で行なわれた最終演説に感動した自分にとって、その後の「政治とカネ」というマスゴミの餌に踊らされた愚民が反民主に流された現状は酷いものだった。とても政治にコメントする気も起きなかった、というのが本音だ。
今日、近所の神社に参拝したら置いてあったチラシ。
皇紀2671年とある。これが何を意味するのか、ほとんどの人は知らないで受け取っていたようだ。
明治神宮至誠館館長 荒谷卓氏が昨年11月の三島事件の鎮魂祭「憂国忌」での講演で次のように語っている。
http://www.meijijingu.or.jp/shiseikan/index.html
特に重大な問題は、この憲法前文にて「憲法の原理に反する一切の詔勅を排除する」ということでしょう。我が国体で、天皇陛下の詔勅を排除するという理論があるはずはない。天皇陛下の詔勅とは天照大神の神勅を起源として、歴代天皇、皇祖皇宗の大御心として、天皇陛下より賜るものです。それが憲法によって封印されてしまうというのは、我が国の歴史を遡ってもありえない行為です。
これを反動的と断罪することは簡単だが、いまの日本の現状を見るにつけ、そんなに素晴らしい国民が民主主義を行なっているのか、という大きな疑問が持ち上がるのだ。
大衆とは、よい意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである。とホセ・オルテガ・イ・ガセトが『大衆の反逆』で述べているが、まさにその通りで、新聞による「小沢悪人報道」や「自民党復権報道」や「中国を一方的に批判する報道」に対し、何も疑問を感じず同意してしまうのが日本の大衆であり、それに対しNOという者に対しては、共存を望まず、大多数の意見に対し同意しない者に対して、死んでも死に切れないほどの憎悪を抱いているのだ。
そんな低俗な大衆に投票権を与える民主主義は、果たして日本に必要なのだろうか?
大いに疑問があるのだがどうだろう。
どこにある?
やつらの利害をくみ上げる党が?
おれといっしょだ。
ただ、踊らされたときだけさ。
行くのは、な。
そしたら自分は生きて行けなくなるからなあ・・・。
もう、自分で自分を消そうとしたくないし・・・。
それが自己欺瞞であれ、箱の底に最後まで残ってた <希望>というものを信じるほかない新年なのでし(笑)。
弱かったり、虐(しいた)げられてたり、報われない人達だって(ちろもそうだし)笑顔になれる社会を!
それが政治と政治家への望みなんだ。
それだけは、捨てれられない。捨てたくないよ。
今年は出来るだけ急いで(とゆっても、のろのろなんだけど)、
兄ちゃんに キッチュな本(松尾貴史ぢゃないよw)の絨毯爆撃をおみまいするから覚悟してね(笑)。
捨てれられない→捨てられない、と書きたかったのでし(苦笑)。
政権交代後の、特にマスコミの流れを好意的に解釈すれば、政権党が何であろうがとにかく政権は叩くべし、という奇妙な硬直した正義感があって、民主党を叩く格好の材料が「政治と金」「小沢」であったけど、世間もそれに流されていったけど、その段階に留まるのみで、そこからなんら建設的なものが生み出されていくわけでも無く、それが民主党をも巻き込んでグチャグチャになっていったのではないでしょうか?
政権交代しても政治不信が煽られれば結局旧既得権益層が得をするだけです。
政権批判はもちろん大切ですが、建設的批判が行えるほどマスコミも国民も熟していなかったということではないでしょうか。
だれかあの薄汚れた狸を狩る奴はいないのか?
画像流出させた基地外海保あたりがやっちゃってくれたらますますヒーローになれるだろうに
戦前からそうでしたが、経済弱者が増えれば増える程に社会主義者は増えるのです
戦前は国家に不利益な社会主義者は殺せば良かったかもしれません(実際に治安維持法という弾圧法を名目に名立たる多くの社会主義者が殺されてきました)
ですが今は戦後の平成、そんな事が出来る訳がありません
自分自身の社会的権利が侵害されているならば今こそ結束して権利を主張するべきです
それこそ大勢の国民が赤旗でも振れば国は間違いなく動くことでしょう