2010年04月17日

1952(昭和27)年5月1日 日共の扇動による「血のメーデー事件」

蕨での在特会見物の唯一の成果がこの本「アカハタ編集局編 人民広場 血のメーデー写真集」(新時代社)である。

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血のメーデー事件とは…
サンフランシスコ講和条約と日米安保条約発効直後の1952(昭和27)年5月1日、日本独立後はじめて迎えた第23回メーデーで警官隊とデモ隊が衝突して、デモ隊に死者2人(東京都職員の高橋正夫さんと法政大学文学部哲学科3年の近藤巨士さん)と負傷者千数百人(警官隊側負傷者800人)が出たうえ、1232人が検挙され、騒擾(そうじょう=騒乱)罪で261人が起訴された事件。首謀者のいない騒擾罪という面では異例な適用となった。



「アメ公かえれ!!」
これがその日われらの愛国的行進の合言葉だった。
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この頃の共産党が愛国心に訴えていることに注目されたし。それと写真中央右下に注目。浅草朝鮮人団体が金日成の肖像画を抱えてデモ行進をしている!

当日、40万人(!)が明治公園にて大会を行なっていたが、決議文の朗読が始まる頃、演壇の左右にいた全学連、東京土建、朝鮮人大学生の数十人が演上に殺到し、「実力を持って人民広場に行こう!」「皇居前を奪還しよう!」と叫びながら、赤旗を振り始めた。彼らは整理係に制止されたが、これで会場は騒然となった。
これは日共の中央委員会の「大衆の怒りをさらに激化せよ」という指令を受けた中核自衛隊(ゲリラ戦を闘う武装組織)の挑発行為と云われている。

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 午後2時頃、組のひとつが日比谷公園に着いた。それから都学連の学生らが「実力をもって人民広場(皇居前広場)に入ろう」と叫び、日比谷交差点付近で警官隊と小競り合いした後、馬場先門から広場に入ろうとしてまず最初の衝突が起こった。デモ隊は手薄だった警官隊を押しきって侵入し、後のデモ隊もそれに続いた。
http://yabusaka.moo.jp/maider.htm

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 デモ隊が集合し終え、ひと息ついていた午後2時25分、二重橋前に布陣していた増援の警官隊約5000名が「かかれ」の号令とともにデモ隊に向かって突入した。警官隊は催涙ガス、ピストルを使用。デモ隊側もプラカードや旗ざお、竹ヤリと投石などでこれに応戦。近くの第1生命相互ビル(元GHQ)の屋上では、国連軍、在日米軍の将兵らがこの様子を眺めていた。

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爆発する民族の怒り あくまで愛国心に訴える日共が意外だ。

 さらにデモ隊は濠端に停められていた米軍の自動車を焼き打ちし、13台が炎上した。消防車が来ても、デモ隊は消火活動を妨害するなど、日比谷一体ではバスも都電も動けなくなり、一時交通がマヒした。
その後も一部が抵抗を続けたものの、多くの参加者は広場から逃げ出した。
 この衝突で、法政大学生・近藤巨士(23歳)が頭を打って死亡、都職員・高橋正夫(23歳)も射殺された。2人の他にも1500人が負傷、警官側も 800人あまりが負傷者を出した。まさに広場を赤く染めた「血のメーデー」となった。

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警官も挑発したが、日共中核自衛隊も暴動を扇動していた。

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血だらけの負傷者をあざけ笑う警官!?

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2名の犠牲者を出し、日共扇動による暴動は終わった。日本共産党による目的は達成されたが、同年10月の総選挙で日本共産党はその全議席を失ってしまった。その代償はあまりにも大きかったのである。


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武装闘争を命令したのはコミンフォルムである。GHQ占領軍を「解放軍」と勘違いしていた日共に喝を入れたのだ。当時の日本共産党にとって、ソビエトは全世界の労働者の祖国と信じられており、ソビエトを中心とする国際共産主義運動の司令部であるコミンフォルムは絶対的権威だったのである。
盲目的にコミンフォルムを信じなければ、日本共産党の存在は有り得ず、日共無ければ革命は有り得なかったのだ。

天皇を絶対視した戦前の軍国主義を、日共が批判する権利はあるのか???
ラベル:共産党 警察
posted by 死ぬのはやつらだ at 21:52| Comment(6) | TrackBack(0) | お笑い日本共産党 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
当時「民族」という言葉は彼らのものだったんですね。
「民族独立行動隊」(今は初音ミクが歌ってますが・・・)とか日教組組合歌にも「ああ民族の独立と云々」の歌詞がありました。
Posted by いまじん at 2010年04月18日 18:35
アメ公帰れ、
ストレートでイイですね
ヤンキーゴーホーム
ほんと在日何とか人よりもアメ公に帰ってもらいたい
Posted by pulin at 2010年04月18日 22:32
日共はいまでこそ、
検察や自民の「友軍」ですが
タイのタクシン派並の行動力のある時期もあったんですね。
Posted by ローレライ at 2010年04月18日 22:32
初めまして。
少し前より面白く読ませてもらってます。

当時は革命を本気で考えていたのでしょうね。
アメリカに軍事占領されているのだから武力革命は必然だし、革命成就後はその防衛のために人民軍を創設すると。
主義の是非は兎も角それなりに筋は通っていたと思います。
政権獲得を本気で考えるなら国防をどうするかを考えなきゃならんですよね。
Posted by グレコ&ローマン at 2010年04月19日 10:23
赤旗新聞なんてケツを拭く価値もない内容。
布製の赤旗なら湘南海岸で褌くらいにはなるだろう。
Posted by 白旗新聞 at 2010年04月22日 09:03
当時の紙名は、写真のように『アカハタ』で、いまや歴史的にも極めて貴重な資料となっています。決してケツなど拭いてはいけませんw

『赤旗』に改名されるのは66年。以前、50年代後半から70年代前半にかけての『赤旗』を図書館で読んだことがあるのですが、内容はなかなか豊富でして、趣味者的には非常に興味をそそられるものでした。

とりわけニューレフト(革共同・BUND)の揺籃期=58〜59年頃の紙面は、反党分子に対する激烈な批判満載で、読んでいて胸がワクワクします。「反党分子××を粉砕せよ」なんて『前進』『解放』真っ青の過激な書きっぷりには萌え萌えです。

その後「ですます調」の導入〜『しんぶん赤旗』への改名と続きますが、そうした紙面改革と共に、どんどん面白さは薄れ、今ではひと月分で、せいぜいクリネックスティッシュ一箱程度の価値かと思われます。
Posted by 一日千秋のプロレタリアート at 2010年04月23日 03:08
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