
【慰安所にて自分の順番を待つ日本軍兵士】
小沢昭一の名著『雑談にっぽん色里誌』は、74年7月から週刊ポストに連載されたものだ。
小沢さんと無名のショーバイニンたちとの興味津々の四方山話は、30年以上たったいまでも色あせずギラギラと光っている。
「性にはその人の人生がそのまま反映されているから」という小沢さんの思いが伝わってくる。
その中で、中国にて従軍慰安所を経営していた須川さんの話を紹介する。
もともと、須川さんは神戸で特殊喫茶店をやっておりました。1階でコーヒーやお酒を頼むと店の女性と契約ができて2階にご案内ってやつですよ。須川さんは「淫売屋」と自ら卑下しておりますがね。
そういう商売をしているなかで、中国で暗躍する特務機関http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%8B%99%E6%A9%9F%E9%96%A2関係の人に知り合いができて
「慰安所形式のものが必ずできる。だから、軍の許可をね、先に取って、女を連れていったようにしたほうがいいんじゃないか」との情報をもらい、1934(昭和12)年に慰安所を南京に開設した。
女性はどのように募集したのか
須川 そうですね、当時、フーテン関係の女もおりましたし、それから淫売を専門にしておる女もおりました。それから慰安所というが、女には慰安所の内容というのはわからないもんです。
小沢 なるほど、はあ。言葉は悪いけど、だまして連れていくわけですね、そういうのを。
須川 ええ、だますような仕組みの女もありましたですね。
日本軍はレンガの建物に、何を放っておいても、まず慰安所を開設させた。
慰安所のできた理由を須川さんは
「結局、軍司令官がね、参謀本部なんかとも連絡とってね、まず占領地の民衆というものを引き込んでおかないと損だというようなことを考えちゃってね、それがためには、女がいなかったら暴行、略奪がどうしてもつきもんだと、だから女を入れてね、慰安所をつくってそれをなくそうというのが、軍のねらいだったと思うんです」と言っている。
「その部隊によっては、こんどはどこどこに行くというんでもってね、いっしょにきてくれないかという線でもって、慰安所を引っぱっていったのもありましたね。当時、汽車なんかも走ってましたから、客車じゃなくて貨物車みたいなやつですね、臨時に仕立てて、それで連れてったと思います」
料金はなんと軍が決めていた。須川さんは当時の軍の人種差別は激しかったと語る。
「ええ、(人種差別が)はげしかったわけなんですね。だから、日本の女が、ええと、1円なら、結局、朝鮮が80銭、それから中国は70銭という具合に差を、当時の軍部はつけたんですね。いまは、そういうことは国際的にとてもうるさいと思いますけど、当時の軍部はそういうことを平気でやったんです」
慰安所は一般の人間は利用したくてもできなかったが、軍属http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E5%B1%9Eであれば泊まることができた。
支払いは軍票http://www.gunpyou.com/で支払われた。兵隊が1円、下士官が1円50銭、将校が3円、泊りは将校のみができて10円。指名も将校のみができたのだ。
須川さんの慰安所では、サックの使用は一切なし。○中○しだったのである。そんななか、女性たちは1日20人以上を相手にすることとなる。衛生状態は劣悪なものだったことが想像されよう。その所為なのか、週に1度軍医が女性の性病検査をしていたそうだ。
中には、やはりヘンタイもいたようだ。
「それが1人ね、私も不思議に思ったんですけんど、1人の女がね、毎日、蒲団を乾燥させてるんですね。なぜこの蒲団をこうまで乾燥させてほすのかなあと思って、最初はわからなかったですね。そのうちに、どうもおかしいっていうんで、帳場によびましてね、「あんた、体の調子でも悪いのと違うか」という方面からきき出しますとね、この通いで来ている1人の将校がね、関係が終わるとね、終わるというと、そのままの姿勢でもってオシッコするのが、その人のクセなんですね」
この将校、オシッコ代として女性に別に10円渡していたそうだ……
ときどき、オカミはショーバイニンに「裏仕事」をおろし、ショーバイニンはそれを引きうけて、両者は握手する。オカミは「急場しのぎに利用するのだ」と腹で思い、ショーバイニンは「しばらくは大手をふれる」と舌を出す。
(中略)
それはそうと。ショーバイ女が〈慰め職〉につくのは、「慰め」から見はなされた定めを背負っているからこそ、「慰め」が売れるのであろう。どうすれば慰めることができるかを、身にしみて知っているのだ。
幸せうすき人が、幸せを売る側にまわる などともいわれるが……
と小沢さんは書き記しているが、グッと胸にきますなぁ。
どちらかというと、この話は、須川さんという軍人ではない人が、軍人相手に商売をしていたという点で、「従軍慰安婦」なるものは存在せず、軍人相手に商売をしている輩がいた、ということを示すものではないでしょうか?
これが、すべてを物語っていますな。須川さんの話は、『雑談にっぽん色里誌 仕掛人編』ちくま書店より発行されていますので、どうぞ、そちらを読んで御判断くださいませよ。
慰安婦関連の書類を、むざむざ占領軍に戦犯資料として残すほど、破廉恥日本陸軍は馬鹿ではなかったと思いますよ。
昭和12年は1934年ではないと思います。
昭和12年の何月に南京に慰安所を開いたのでしょうか?といっても、南京陥落12月中旬以降しか考えられませんが・・・
貴重な証言だけにそこが微妙です。
ま、「謝罪せよ」と主張する人たちにとって、「吉田清治」なる人物は「最初からいなかった」ということになってますなw。
罵倒するっていうのが日本の姿勢なんですね。
それも経験ひとつ無さそうな人びとがです。
ワタシにほんの「盗人猛々しい」という言葉知ってます。それですね?
日本では社会のあらゆる被害者はそのように虐待されているのでしょうね。
何とこどもの国でしょう。
じゃなければ、悪意で一杯の国?
謙虚な国と尊敬しておりましたのに勘違いですか。
いずれにしても大変な国になりましたね。
同情を禁じ得ません。