元旦になってしまいました。いい天気です。山田さん(注)が入れてくださった花が美しく咲いています。
1年前の今日のなんと暗かったことか。
この1年間の自己をふりかえるととめどもなく自己嫌悪と絶望がふきだしてきます。
方向は分かりました。今ぼくに必要なのは真の勇気のみです。はじめての革命的試練 跳躍のための。1973年1月1日 森
注)山田孝の妻のこと。山田孝は森による「総括要求」のため、1972年2月12日、妙義山中籠澤の洞窟で死亡した。
森の死の当日に放映された「夜のヒットスタジオ」特番生放送中にて、司会の前田武彦が森の死を罵詈雑言混じりに伝えるという放送事故があったというが、人間として真っ当な行為だったと思う。
永田洋子は自著『続十六の墓標』(90年)にて、
「私たちを含め、日本人全体が有形無形に森さんに自殺することを強いていた」と記している。
ラベル:連合赤軍
確か私の記憶ではTVの『緋牡丹博徒』の放送を見ている時にテロップのニュース速報で、森の自殺を知ったような記憶があります。
やつらださんとは意見の一致を見ませんが、私は、森恒夫は<真面目過ぎる>という点で批判的です。こういう人が指導者になると間違った責任感や使命感で人を振り回すので、非常に傍迷惑なのです。
政治的な活動家としての意識を持った人たちが、総括として自らの命を絶つことをステータスになることは避けなければならないでしょう。
それよりも、苦境の世の中を生き抜きながら、地道な活動をすることは死ぬことよりも過酷ではないかと思います。
当時のソビエト大使館時代から、日の丸をなびかせ、大音響で北方領土返還を訴えているが、右翼がロシア革命前の「赤の広場」で「日の丸」を振ような青年がいたのでしょうか??
もしも、貴方が死を恐れない人ならば、当時の「赤の広場」でKGB関係者をも恐れずに日の丸を振りながら演説が出来たでしょう。
僕の知る限り、古今東西にもたった一人ですね。その彼のように何回も国内外で時の権力に拘束されても、生き抜いて闘う者こそ本物と言えるでしょう。
どの本だったか忘れましたが、(高校生の?)高橋源一郎が同志社学館で森と会った時の思い出を書いていました。記憶が曖昧で、ちょっと自信がないのですが、当時の森は連赤の強面のリーダーという印象とは異なり、むしろ繊細な文学的政治青年といった風の活動家であった、という内容だったと思います。
おそらく森は独房の中で内省する内、ひ弱い文学青年に先祖がえりしたのかもしれません(引用されてる森の遺書の主語も「ぼく」です)。嘗てのへたれの理論家・逃亡分子が余りにも遠くに来てしまったことに眩暈を覚えるほどに戦慄したことでしょう。