福澤幸雄(1943〜1969)は、あの福澤諭吉の曾孫であり、父・福澤進太郎とギリシヤ人である母・福澤アクリヴィとの間にパリで生まれた。
ハーフであった幸雄は、そのエキゾチックな顔立ちでファッションモデルで大活躍。自らアパレルメーカー・エドワーズの取締役兼企画部長を勤めていたほどだ。
その時代の最先端の、クールな生活ぶりは、クレイジーケンバンドの名曲「ハンサムなプレイボーイ」でうかがい知れる。
そのカッコイイ、プレイボーイは、1969年2月12日に静岡県袋井市のヤマハテストコースでトヨタのレーシングカー、トヨタ7のテスト中に起きた事故により、レーシングドライバーとして更なる飛躍を期待されていた福澤幸雄は、この世を去ってしまう。享年25歳であった。
コース脇に設置されていた標識に激突炎上した幸雄のマシンは宙を舞い炎上した。
驚くべきことに、トヨタの関係者は消火活動をせずに、20分間も燃え盛る炎の中で幸雄が焼け死ぬのを黙って見ているだけであった。
いったいその時、何があったのか?
トヨタの対応に納得がいかない、父・福澤進太郎が、雑誌『話の特集』1969年4月号に残した談話を転載する。
企業の秘密を守ることが、人間の生命や価値より優先されていいのか。私は幸雄の死に出会って以来、その非情の論理に憤りを覚えつづけてきた。
事故を知らされたのは、事故発生後2時間も経てからのことでしたが、その電話での第一報(男の人でした)は、「事故が起きました。詳細はまだ解りません」というもの。あわててトヨタの本社や現場の営業所に電話を入れたがさっぱり要領を得ません。あげくの果てかえってきた答えが、「何処からおききになりましたか?」。これが事故の安否を気づかう家族に対する返事でしょうか。さらに現場へ駆けつけた私に、責任者の説明した言葉は、「車には異常がなかった。ただ苛酷な条件でお願いしたのでどうも…」というものでした。
幸雄の遺体は現場ヤマハ・テストコース内のプレハブの小屋に寝かされていた。全身包帯で包まれて、目だけが出ているという状態でした。検死はすでにすんだという。ところが解剖はしていないという。変死の場合は例え家族が断っても司法解剖は行われるのです。それをしていないのは、変死でないと警察が認めたからなのでしょう。
しかし後から解ったことだが、「現場保存」はされておらず、調べにあたった磐田署は、「鑑定写真」さえ撮っていなかった。というのも、事故発生と同時にトヨタ係員はコースを閉鎖してしまい、関係者以外は現場に一人も近づけない措置をとったからです。スクラップになった事故車はシートをかぶせられ、「企業の秘密にかかわることだから…」という理由で警察にさえ写真を撮らせなかった。
一方的に事故原因を調べたと称し、車にもコースにも問題点はなかったと表明した。つまり「操縦ミス」による過失説を印象づけた。警察はろくな調べもせず、会社調べをうのみにして、変死の疑いを捨ててしまった。企業の秘密は、警察の捜査権よりも優先されるものなのか?
ともかく、事故の原因究明は警察や第三者的な調査委員会のものでなく、トヨタ側の一方的な見解にすぎないのだ。その結果の過失説にしたところで、会社責任者の私に対する弁明ですら「私の推測によれば」とか「カンによれば」とかいった、主観的なものばかりなのです。
実際不審な点、納得のいかないことが多すぎる。幸雄の乗っていた車にしても新聞等には「トヨタ7」の改良型とあるが、どんな車種かわからない。改めて危険なテストをやったり、あんなに秘密にこだわるのだから新車種だったのかもしれない。そのことは幸雄も覚悟のことでしょうから我慢はします。ですが、幸雄の死を無駄にしないためにも明確な原因究明だけは絶対してほしいものです。
(2月20日鎌倉の自宅で、談)
ラベル:トヨタ
http://www.hmv.co.jp/product/detail/917421
三保敬太郎は「11PM」のあのテーマの作曲家ですね。
夜のヒットスタジオに出演中に幸雄の死を知らされて泣きながら歌った、というのが有名な話ですね。
その後、新興宗教に走った理由なんでしょうか。
三保敬太郎は、60年代に自らレーサーとなっていたりもする。