失礼ながら、長生きしすぎだったのでは、と思ったりする。
新聞では森繁の生前の代表作として、映画「社長シリーズ」が大きな見出しで紹介されていたが、正直、植木等の「無責任シリーズ」が現代の視点で見ても、ぶっ飛んだ内容であるにもかかわらず、森繁の「社長シリーズ」「駅前シリーズ」は笑えない内容であり、「三丁目の夕日」のような、懐かしい昭和を懐古する為の資料的価値ぐらいの内容だ。
映画なら、山崎豊子原作の映画『暖簾』(1958)の方が真っ当な作品だ。
森繁に関しては、小林信彦が興味深い説を書いているので紹介する。
〈森繁病〉と私が読んでいるこの病状は、まず、一人の喜劇人が、彼を売り出すに至った原因である〈動き〉を止めることに始まる。
それから一種のウツ状態になる。その人が体技型であるほど、その病状は複雑になる。動き出そうとする手足を押さえつけているのだから、ウツにならざるを得ないであろう。
そのうち、ヒステリーみたいに、
「ぼくは、コメディアンじゃないんです!」
などと叫びだす。
「じゃ、きみは何なんだ?」と反問せざるを得ない。相手は、はすっかいに、うかがうような目つきで、こちらを見て、
「何つうかなあ…哀愁がないんですよ。ぼくの演技には…」
これが第一期。
第二期は、その存在理由であるところの珍芸・扮装・奇抜な動きを全部やめてしまい、それをどうしてもやらねばならぬときは、しぶしぶ、ふてくされてやる。
(まだ、こんなこと、やってます…)といった、照れた、しかし、若干、誇らしげな眼で、こちらを見る。
第三期になると、赤ん坊を抱いたり(チャップリンの『キッド』参照)、踊り子や花売り娘を遠くから眺め、夜道をとぼとぼ去ってゆくピエロといった役を、大張りきりで演ずるようになる。泣きベソをかいたような顔をアップで撮って欲しいと注文する。チャップリンは、自分の年齢のとき何をしていたろうと考え、自分は、だいぶモリシゲに追いついてきた、とひとりうなずいたりする。
第四期…以上のような芝居は、チャップリンが…あるいはモリシゲがやったことであるからして(『森繁よ何処へ行く』で森繁もこの方に足を突っ込みかけ、やめた。昭和31年)、当然、そのタレントは人気を失ってゆく。(モリシゲは運が良かったんだ!)と心の中で叫びながら。
……以上は、〈森繁病〉を一つのパターンにまとめてみたもので、ひとによって少しずつ病状は変わるのである。カットの切れ目で、ひと言、捨台詞を呟く森繁の演技を真似たりするのは、回復の見込みがあるほうだ。
由利徹や佐山俊二ら若干のコメディアンを除いて、大半が、かかったこの病気は、非常に単純な思い違いに発している。
(小林信彦著『日本の喜劇人 喜劇人編』新潮社)
小林によれば、森繁はそもそもコメディアンを目指してはいないと断言する。昭和11年当時、喜劇人を目指そうとする人間なら、まず浅草へ行っているはずであり、東宝新劇団の一員としてキャリアを始めた森繁は、いわゆるコメディアンになる気はなかったということだ。
それと、森繁は軽演劇の〈虻蜂座〉に名を連ねた故の誤解があるが、彼がムーランで高く買われたのは、ある人間がふっと弱点や低い部分をみせる、それがウケたのであって、動きによって笑いをとるたぐいの道化師ではない、と指摘している。
コメディアンから演技派に転身したという一点だけをとりあげて、他人がその生き方を真似ようとするのは、無謀、命とりというほかなく、森繁のインテリぶりを真似て、随筆を書いたり、涙ぐましい次第である。(しかも、森繁の長い不遇期間は計算に入っていないのだから、ムシがいい。)
(中略)
森繁の武器はいろいろあった。口跡の良さ、関西弁と東京弁を自在に使いわけること(これは、めったにできることではない)、アドリブを芸にまで高めたこと、その他その他である。同時代のコメディアンにとって、こんな気になる存在はないだろうとおもわれる。
(中略)
同時代人というのは、たとえば益田喜頓のように、森繁を無視する在り方もあり得る(それに、キャリアからいえば、益田喜頓のほうが先輩でもある)。堺駿二のようにカンケイない、という在り方もある。
だが、強固な個人主義者である山茶花究(森繁は〈限界以上に親しくなろうとせぬ男〉と書いている)を除いて、森繁によってペースを乱された人はずいぶんあったろう。
森繁がうまいからだけではなく……当時、現場にいた人の中には、のり平、有島の方が〈役者〉としては上だった、と明言する人もいる……森繁の存在自体に、なにか、日本人の心をいきなり、ひっつかむようなところがあるのではないか。
……そして、森繁の存在は、むしろ、あとからくる日本の喜劇人たちの、生理のみならず、生き方をも、ときとして、狂わせてしまったのである。
いちばん不思議なのは、ひそかに、自分の方が森繁よりうまいと自負している役者すら、だんだん、劣等感をおぼえてきて、森繁の〈全仕事〉または〈全存在〉にかなわぬというコンプレックスを抱いて終る、その辺が、私にも、よくつかめないのである。
単純な肯定や、ヒステリックな否定ではなく、森繁久彌とは、いったい何なのだろうかと考える、その再検討、再評価の時期がきていると私には思われる。(同上より)
森繁への嫉妬だろうか、誤解だろうか、伴淳、三木のり平、は森繁的なものへ囚われてしまい、こじんまりと終ってしまった。
渥美清、ビートたけし、片岡鶴太郎も森繁病に罹った典型的なクランケだと思うよ。
チャリティーに走った萩本欽一もそうだろう。
不幸なことに、森繁は長生きしてしまい、自分と同世代の喜劇人、そして後輩の喜劇人が森繁病に感染し、哀れな最期を遂げる姿を看取ることとなったのだ。
「笑いと涙」についてはチャップリンから藤山寛美の例まであるからなあ。
渥美清も決してドライなだけの笑いじゃ無かったし。
ギャグ漫画家は、赤塚がアル中、小林よしのりが変になり、山上たつひこも、ちょっと?だし。
いしいひさいちもなんだかなあ、だし。
鴨川つばめは廃人みたいになちゃったし、江口寿史もあれだし。
死屍累々で、かくも人を笑わせ続けるのは、大変なことのようです。
俺は由利徹さんのような人を愛しますねぇ。理屈じゃなくてバカを演じられる人ってことで。
日本ではチャップリンのことを神格化しすぎますよ。
戦後の作品は、成りが小さすぎる。
バスター・キートンやマルクス兄弟のバカ馬鹿しさが、もっと評価されても良いと思います。
小松政夫が森繁のことを尊敬していたことがショックでした。
良く考えると、彼も森繁病に罹っていたんですよね。
監督が川島雄三。映画としては駄作ですが・・・
まあ、昔はこんな映画も作ったんだなあ、と。
うわぁ、これ観たい日本映画の1本です。
女をめぐる男の殺し合い、実話なんだそうですねぇ。
今は喜劇人なんて微塵もいませんし、芸人上がりといえども役者といえるのかどうか、垣根は殆んど取っ払われてモドキがいるだけの様な気がします。
萩本欽一は喜劇人枠ではない、欽ちゃんこそがテレビ芸人の走りだと誰だか言ってましたが、ビートたけしは森繁の器用さに及ばず、欽ちゃんの演出力に及ばず、発想力には恵まれ映画を撮りドラマに呼ばれてそれなりにこなしはすれど逃げる場所【芸人】を用意しているところがこの人らしい。
たけしも森繁なんてよぉって否定する側らしいですが本当は羨ましいと思ってるでしょうよ。
森繁というと俳優が死ぬと「早すぎる」と慟哭のコメントを寄せる人というイメージが近年ではお馴染みですが、さすがに早すぎるとコメントする俳優仲間はいないんでしょうね。
徹子の部屋で黒柳徹子相手にボケ老人のフリをして徹子をからかう森繁が一番好きだったなぁ。
社長シリーズで、腹かかえて笑ってたちろは、昭和の感性、だなあ(爆)。
当然、ロードショウぢゃなくて、銀座並木座の一番前の真ん中の座席で。
昔のニホンに胸ときめかしてた(笑)!
定番ギャグやマンネリズムや小ネタ・・・。
三木のり平、なぜだか好きだったなあ。
登場人物としての(演者の)森繁さんは、面白かった。けど、
個人に戻った森繁さんには興味持てなかったなあ・・・でした(回想モード)。
チキンの薄らハゲw
薄らこっぱげ!
に私が訂正しておきます。www
記事に関係なくてスンマセン。<(_ _)>笑
初めて観たときは主演は伴淳だと思ってしまった...
あと二枚目の三国連太郎と息子そっくりな宍戸錠が出演してます。
鋭い指摘ですなぁ。
TVタックルでは、その手法で逃げております。
よっ、昭和の生き字引w
のり平はダメ、脇役でも臭すぎる。
たしか、宍戸錠の初出演作だと記憶しています。未見ですorz
ああ、このキャスティングにはこういう意味があったのか、と(笑
デイブ・スペクターに言わせると、このような現象が起きるのは、日本ではお笑いの身分が低いからだとのこと。
手品師が超能力者を名乗るのも同様と。
『知床旅情』は好いと思う。でも、それだけ。森光子だったか、追悼のコメントで「あんなに芝居の上手い人はいなかった」なんて語ってたけど、そうかあ?俺の評価では森繁=クサイ芝居だった。「巧い演技をしているワタクシ」みたいな高慢さが透けて見えるようで好きになれなかった。
>森繁の武器はいろいろあった。口跡の良さ、関西弁と東京弁を自在に使いわけること(これは、めったにできることではない)
関西弁と東京弁の絶妙な使い分けの出来た役者と言えば田宮二郎でしょう。『白い巨塔』の財前役は白眉。標準語と方言の使い分けが出来ない唐沢には、田宮財前を越えることなど無理だった。
ナレーションは江守徹で、「その合間には森繁ラッコによる教訓&皮肉独演会。どんなに見かけが可愛らしいラッコでも、声は森繁。森繁ヴォイスの合間に地声で「キュー」とか鳴くから始末が悪い」(大矢雅則)だそうです…