
日本では『ホテル ルワンダ』がようやく公開されたが、いまの日本の現状では、上映されるのが絶望的な映画がある。
20世紀フォックスが05年、全米で上映した映画『The RINGER』だ。内容は、我々の障害者に対する無意識な心の奥の偏見をエグル問題作だ。
TBSラジオ『ストリーム』1/17(火)町山智浩氏の「コラムの花道」で紹介された
、健常者が知能障害者になりすましてスペシャルオリンピックスに出るという映画「ザ・リンガー」の話より……【オフィシャルサイト】http://www2.foxsearchlight.com/theringer/
ストーリーはこうだ。全米で行われている、知的障害者のスポーツ大会『スペシャルオリンピックス』に、健常者の主人公ジェフィー(あの極悪お笑い映画ジャッカスに出ていたジョニー・ノックスビル)が知的障害者の振りして出場。おじさんと組んでスポーツ賭博で大儲けしようという魂胆なのだが、見事に本物の知的障害者に見破られ、とことん虐められ馬鹿にされるという内容。
『スペシャルオリンピックス』は、あのJ.F.ケネディーの姪のマリア・シュライバーの弟が会長をやっている。知的障害者のスポーツ大会で、ゴルフも含むありとあらゆるスポーツが全米いたるところで毎週のように行われていて、アメリカではケーブルテレビのスポーツチャンネルで番組ともなっているポピュラーなもの。『スペシャルオリンピックス』のオフィシャルサイトを観てもらえばわかるが、http://www.specialolympics.org/Special+Olympics+Public+Website/default.htm この映画『The RINGER』は、『スペシャルオリンピックス』の全面協力によって撮影されているし、出演している知的障害者も本物なのだ。
映画の中で、主人公が知的障害者を真似るために映画『フォレストガンプ』や『アイアム・サム』のビデオを観て研究するなどかなりヤバイ内容らしいが、『スペシャルオリンピックス』は全面協力しているのだ。日本では障害者団体から徹底的な抗議がきて、このような内容の映画を上映するなどありえないだろう。
監督はファレリー兄弟。日本では、『メリーに首ったけ』『愛しのローズマリー』で有名だ。
なぜこのような映画をファレリー兄弟はつくることにしたのか?
兄弟の監督デビュー作は『ジム・キャリーはMr.ダマー』。この映画に兄弟は幼なじみの友人を招待した。彼は、高校生のとき誤って浅瀬に飛び込んで頚椎骨折して四肢麻痺になってしまった車椅子の人。
彼が、『ジム・キャリーはMr.ダマー』を観てファレリー兄弟に何と言ったか、
「君たちの映画に限らず、なぜ映画には車椅子の人や障害者が映らないんだ。日常で障害者は普通に出会う存在じゃないか。なぜ、映画には、どこにも障害者が映っていないんだ」
ファレリー兄弟は、障害者の友人に言われたこの言葉に衝撃を受けた。
テレビや映画は無意識に障害者を排除している。障害者である彼らを出演させる場合、重いテーマを負わせたり、悲劇の主人公に仕立てたり、なんらかの意味づけにしなきゃいけない。なにげない日常に障害者が出てこないのは、彼らに対する排除であり差別だと、ファレリー兄弟は考えた。
そこで、映画『KINGPIN』に車椅子の友人を出演させる。これは、主人公が手首が無く義手のボーリングのプロの映画だが、車椅子の彼は、その主人公の手首を切断する極悪障害者の役で出演しているのだ!
車椅子の彼いわく、「障害者を天使のように扱うのはやめてくれ。ただの人間なんだから、良い奴もいるし、悪い奴もいるのだから」
知的障害者の人たちを笑うのは、一般にはタブーとされているが、映画『The RINGER』に出演している知的障害者たちは、「(映画に出演している)俺たちを笑ってくれ」と言っている。彼らは、ファレリー兄弟が映画に出演させてくれたことを「素晴らしいこと」と思い、感謝しているのだ。

【『The RINGER』のプレミアショーにて賞賛される、出演した知的障害者たちと主演のノックスビル】
これは、差別用語にも通用されることじゃないかと考える。
おし、めくら(視覚障害者)、つんぼ(聴覚障害者)、かたわ(身体障害者)、気違い(精神障害者)、白痴(知的障害者)、植物人間 かいざり、片手落ち、びっこ、ぎっちょ などが、放送禁止用語になっているようだが、俺にすれば、障害者そのものを放送禁止にしているのが、いまのマスゴミの現状なのだと思う。そういえば、最近、風俗大好き、ナンパもお手のもののスケベ障害者ホーキング青山をテレビで見かけなくなった。何かフィルターでもかかっているのか?
俺には、もう亡くなったが、脳性麻痺の従姉がいたので、障害者は日常の風景だった。小学校に通っていた30年以上前、クラスは違ったが、知的障害者の子が皆と同じクラスで授業を受けていた。障害者は隔離されてはいなかった。同じクラスには言語障害の友人もいた。町内には、「○○のバカ」と呼ばれる知的障害者がふらついていたが、バカにしながらも「今日はみかけないが、なにかあったのか」などと、皆で気遣っていたものだ。
障害者団体は、差別を無くすために、いろいろ抗議をやっているようだが……
東横イン社長が謝罪〜障害者団体抗議に
大手ビジネスホテルチェーン「東横イン」(東京都大田区)の施設不正改造問題で、全国62団体で構成する日本身体障害者団体連合会(小川栄一会長)は2日、東京都豊島区の同会事務局に同社の西田憲正社長らを呼び、抗議文を手渡した。
抗議文では、不正改造は障害者と健常者が均等に生活できる社会を目指す理念を踏みにじったと批判。西田社長の一連の言動も「身体障害者の人権を軽視」したとし、施設の早急な改善などを求めている。西田社長は「大変申し訳ない。施設を障害のある方に配慮した状態に戻したい」と謝罪した。(読売新聞)
日本身体障害者団体連合会にお願いしたい。映画『The RINGER』の日本上映をぜひフォックスジャパンに訴えてほしい。映画『The RINGER』が日本で上映されないことは「障害者と健常者が均等に生活できる社会を目指す理念を踏みにじった」行為だと思うからだ。
この映画『The RINGER』が、普通にシネコンで上映されるとき、本当の差別が日本で無くなる時なのだと思う。







すごいタイトルのブログだけど、書き手の想定外のまともさとのギャップがたまらないです。もっと煽って下さい。お願いします。
キチガイと天才は紙一重なり。
例えば昔縁日の名物だった「人間ポンプ」「蛇女」とかの「身障者芸人」っていたでしょ。が現在彼らのようなグループは数えるほどしかない(数年前「新宿ロフトプラスワン」でイベントやってたことあった)。かつて「『小人プロレスラー』の活躍の場を奪った『偽善者ども』が同様の事をやった」からである。
「障害者団体」は「彼らの力」になったのか?「ない」のだ。どころか彼らをつぶす側にまわったともいえる。99から00年の毎日か朝日新聞で例の「蛇女」芸人の特集記事やった時に「障害者団体の幹部のコメント」があったが、
「芸に誇りを持った人もいるはずだ」と言いつつ「やはり人権思想と追い入れない職業だった」とヌカしたのだ(婦人団体が風俗嬢差別するのと同レベル)。これって彼だけでなく他の団体の連中もそんなもんじゃないのか?
この記事の載った新聞(の縮刷版)を現在探してる(切抜きをなくしちゃったので)。もしご存知の方お知らせいただきたい。
『大石・沖野にみる「文化人」的アプローチ
大逆事件の大石誠之助・沖野岩三郎を含む明治の初期社会主義の思想は、平沼的なものと対抗し、これを打ち破れるものだったか。どうもそうではなかったのではないか、と私は思っている。
彼らは部落外の人間であった。そして、ごく簡単にいって、彼らは被差別部落を「あってはならないもの」と考えている。
「あってはならないもの」が「ある」のは社会が悪い。そういう社会として成り立たせている仕組みが悪い。だから、仕組みを変え、社会を変えなければならない。そういうことだったのだろう。これのどこが悪いと言われるかも知れないが、私はあえて異を唱えたい。「あってはならないもの」が「ある」という、そもそもの発想が逆立ちしていると思うのだ。こういう発想においては、「あってはならない」という正しい理念を持った自分がいて、そこからまちがった現実が見下ろされている。それは、プラス・マイナスの符号を付けるところが違っていたり反対だったりするだけで、いてはならないやつらを社会から一掃しようという平沼的思想と基本的に同じである。
逆である。正しいか間違っているかに関係なく、悲惨と苦悩に満ちた現実がまず「あり」、その中に自分が立っていて、その現実を全ての人たちと共有している。ああ、この悲惨と苦悩を、自分のため、自分たちのためになんとかしたい、と天をふりあおぐ。そのとき、更新された新しい世界像が、ふりあおいだ天から、社会思想的に、あるいは宗教的に結晶されてくる場合がある。されてこない場合もある、だが、いずれにしても、このどうしようもない現実の中から天をふりあおぐところから、すべてがはじまる。およそ、取るに足る思想とは、そういうところからはじめて醸成されてくるのではないか。
この方向が逆な二つのアプローチ、その前者を「文化人」的、後者を「生活者」的と、とりあえず名付けておこう。
大石誠之助や沖野岩三郎は、基本的に「文化人」的であった。彼らは被差別部落民の悲惨と苦悩に共感し、しかもそれを自分の責任で軽減しようと努めた。これは、文化人や宗教家が二階の書斎や教会堂の説教壇から平等や愛を説くにとどまるのではなく、それを実践しようとした立派な行動である。その意味では傍観者的ではないし、純粋の「文化人」的アプローチを踏み越えている。けれど、「あるべきもの」を知っている正しい自分から「あってはならないもの」である現実を見下ろすという基本的な姿勢の枠内にある。やっぱり、正しい自己が留保されている(中略)』(「近代の奈落」より)