たぶん、世間マスゴミの扱いの大きさから言えば、ヒューザー社長の国会証人喚問、東京地検特捜部による金満デブの家宅捜査、宮崎勤の死刑判決って順になろう。
いろいろ書きたいことはあるが、俺にとって一番の関心記事は『宮崎勤の死刑判決』だ。
宮崎勤被告、17日に最高裁判決 「精神鑑定して」
2006年01月17日07時20分
88〜89年の連続幼女誘拐殺人事件で殺人などの罪に問われ、17日に最高裁で判決を言い渡される宮崎勤被告(43)=一、二審で死刑=が16日、臨床心理士との面会に応じた。面会は東京拘置所で約20分間。同被告は母親や弁護人以外との面会にほとんど応じていないが、「精神鑑定をしてもらいたいから」会ったと話したという。死刑の是非が争われている被告の、上告審判決前日の様子が明らかになるのは極めて異例だ。
面会したのは臨床心理士の長谷川博一・東海女子大教授。昨夏から被告と文通してきた。面会は教授が1週間前に手紙で打診。13日に承諾の返事が届き、実現した。
教授によると、被告は金縁のめがね姿。事件当時よりもかなりやせ、髪も薄くなっていたという。職員に背中を押されて面会室に現れると、「おどおどしておびえるような感じで」座った。面会中はずっと左手でほおづえをつき、やや下を向いたまま、一度も視線を合わせなかった。ボソボソとした話し方だが、はっきり聞き取れる音量だった。
――なぜ面会してもいいと思ったのですか
「精神鑑定をしてもらいたいから」
――17日に最高裁判決がありますが
「知りません」
――もし、死刑判決が出てしまったら
「そんなことはありません。無罪です」
――拘置所はつらい?
「苦しいです。声(幻聴)がするから」
――(心のよりどころだったとされ、事件前に死亡した)おじいさんが現れることはありますか
「ときどき現れます」
――犯行はおじいさんのためにやったのですか
「そう。よみがえらせるためにやった」
――いつよみがえるのですか
「まもなく」
――自分がやった行為を、離れた所から自分で見ていた体験があるそうですが、どのくらい離れて見ていたのですか
「1メートルくらい」
――それは白黒ですか
「カラーです」
――何か希望は
「(世の中に)伝えてほしい。私が優しいということを」
長谷川教授は「うそをついている感じはなかった」という。すぐに答えが返ってくる時もあれば、無言のままの時もあったという。
これまでの経緯や今回のやりとりなどから、教授は「パーソナリティー障害と離人症などが交ざった状態」とみる。「まだ精神状態が解明されたとは言えないのではないか。10年以上前と比べ、鑑定の技術は格段に上がっている。改めて鑑定する必要性を感じた」と話した。
無関心の殻外れず 幼女連続殺人・宮崎被告
2006年01月16日03時12分
雑誌「創」編集部に送られてきた宮崎被告の手紙
88、89年の連続幼女誘拐殺人事件で殺人などの罪に問われ、一、二審で死刑とされた宮崎勤被告(43)の上告審判決が17日、最高裁第三小法廷で言い渡される。事件から17年余。最高裁の判決を前にして今、何を考えているのか。宮崎被告は拘置所で多くの手紙を書き、膨大な言葉を発してきた。ただ、やりとりを続けている臨床心理士らにも、宮崎被告の心はまだ見えてこない。
「関係ありません」
臨床心理士の長谷川博一・東海女子大教授は、昨夏から「被告の内面を少しでも明らかにできれば」と学生とともに手紙を8通出した。返事は6通来た。
なぜ、事件をおこしたのか。事件について、どう考えているのか。
宮崎被告は、問いかけに対し、決まって「関係ありません」と答えた。
宮崎被告は月刊誌「創」の編集部とも96年以降、数百通の手紙をやりとりしている。
昨秋以降、編集部に届いた手紙をみても、事件や裁判への無関心さが目立つ。
▽(遺族への謝罪の気持ちは)ありません
▽(最高裁に期待することは)期待するしない、というものがない
▽(死刑について)関係ない
▽(今度の判決は)無罪だと思う
篠田博之編集長は「今度の判決で自分の刑が確定するという認識がないようだ」と語る。
長谷川さんは、大阪教育大付属池田小の児童殺傷事件の宅間守・元死刑囚と15回面会し、04年9月の執行直前まで対話を重ねた。
同じ死刑という罰に向き合っているはずなのに、2人はあまりにも違う。長谷川さんはそう感じている。
「宅間元死刑囚は、早期の死刑を望みながらも、一方では死を恐れ、夢でうなされるほど苦しんでいた」
長谷川さんが面会した際、「自分が、殺された子どもの立場やったら、無念だろうと思う」「生まれてこなければよかった」と話した。元死刑囚が自分の行動を認識して後悔し、苦しんでいる。そう感じた。
これに対し、宮崎被告の手紙には、後悔の気持ちや感情が含まれた言葉が見あたらない。手紙の文字も、宅間元死刑囚は罫線(けいせん)の間いっぱいの大きな字でぎっしり書いていたのに対し、宮崎被告は小さな文字を頼りなげに連ねている。
長谷川さんは精神鑑定の内容なども踏まえて、こう分析する。
「居直っているのでなく、一人だけの世界に深く入り込み、その枠内で君臨しているので、『枠の外』のことに全く興味がない状況。どんな判決が出ても、何も感じないのではないか」
「コミックマーケットのカタログがほしい」
宮崎被告は昨年12月、創編集部に届いた手紙でこう訴えた。最高裁の判決日が決まった後も、今夏の行事のことを気にしていた。
法廷で「もっと有名になりたい」などと発言した自己顕示欲の強さは最近の手紙でも変わらない。「私のことを書くときは、宅間守のことを織り交ぜてください」。そんな記述に、長谷川さんは「注目を浴びた人物と肩を並べたいという意識の表れだろう」とみる。
最高裁での公判をめぐっても、「傍聴にきてください」と長谷川さんを誘ったり、17日の判決を報じるテレビニュースを「ビデオに撮っておいてほしい」と創編集部に頼んだりしている。有名になりたい理由を「産まれてくる人たちに自分のことを知ってほしい、ということなのです」と書いている。
宮崎被告の心はいま、どんな状態なのか。
昨年11月ごろ、創編集部に届いた手紙。
「以前の幻聴は、得たいのしれない力を持つ人たちが、サワサワと話し合って『ツトム』とか『リンチ!』というものだった。01年ごろからは、『目を針で刺すのは私にやらせろ』とか、『耳をそぎ落とすのは私にやらせろ!』とか言って、話し合っているのです」
弁護人は「統合失調症だ」と主張し、審理を東京高裁に差し戻して再鑑定するよう求めている。一方、長谷川さんは「統合失調症とは断定できない」とし、(1)パーソナリティー障害(2)離人症(3)性的サディズムの三つが交ざった状態ではないかとみる。「これまでの司法判断にそえば、責任能力があると判断されてもやむを得ない」と考える。
宮崎被告は公判で「ネズミ人間が出てきた」などと不可解な供述を繰り返した。「詐病」「計算ずく」との見方も根強い。これについて、10年やりとりを続けた篠田編集長は「結局、どちらかわからなかった」。
長谷川さんは思う。
「なんとか彼の世界に入り込みたい」
以上、asahi.com(http://www.asahi.com/home.html)より
刑事訴訟法479条によれば、『死刑の言い渡しを受けたものが心神喪失状態に在るときは法務大臣の命令によって執行を停止する』とある。
死刑は罰の一種であって、執行される本人に、その自覚がなければ意味がない。殺されるのが「苦痛」でなければならないのだ。
上記の長谷川教授は、「パーソナリティー障害と離人症などが交ざった状態」とみており、「まだ精神状態が解明されたとは言えないのではないか。10年以上前と比べ、鑑定の技術は格段に上がっている。改めて鑑定する必要性を感じた」と述べている。
どう考えても、宮崎の死刑判決は、まったく意味がないと考える。
『心の解明』踏み込まず
宮崎被告最高裁判決 裁判員制控え課題
「非道な動機に酌量の余地はない。本件上告を棄却する」。十七日午後、幼女連続誘拐殺人事件の宮崎勤被告(43)に死刑判決を下した最高裁第三小法廷は、わずか二分弱で静かに閉廷した。三ページの判決文は、被告の刑事責任能力を認めた一、二審判決を全面的に支持。結果の重大性を重視する最近の司法判断の流れに沿った形となったが、公判で浮き彫りになった精神鑑定をめぐる課題は残ったままだ。
三種類の精神鑑定が出された異例の長期裁判の大半は、刑事責任能力の解明に費やされた。
宮崎被告は捜査段階の筋道の立った供述を否定し、「ネズミ人間が出て、訳が分からなくなった。気が付くと、女の子が倒れていた」などと意味不明な証言を繰り返した。鑑定した医師たちは、問いかけに反応がなかったり、際限なくしゃべり続けたりするなど被告のさらに多様な反応に直面した。
それを犯行当時から続く病的なものとみるのか、逮捕後の拘置期間中に生じた拘禁反応ととらえるのか−。この差が鑑定結果を左右した。
一次鑑定は一年余、二次鑑定は二年近くを費やし、手の障害に悩んでいた成育歴、それを知りながら手術を受けさせなかった両親との関係などが詳細に分析された。
家族がお互いに関心を持ち合わない「解離性家族」だったとの指摘など注目に値する内容もあった。
しかし、「多重人格」も含め精神医学界でこうした鑑定内容は活発な議論に発展しなかった。
一般市民が参加する裁判員制度(二〇〇九年開始)を前に、〇三年に裁判迅速化法が施行された。宮崎事件では七年かかったが、二年以内で一審を終えるよう裁判所などに努力を求めている。
限られた医師が勤務の合間を縫って精神鑑定を担当している現状があることから、拙速を防ぐため、医療現場からは「鑑定に専従する医師を置くべきだ」という声も出ているという。
精神鑑定は、一審途中から異常な言動が目立ったオウム真理教元代表麻原彰晃被告(50)=本名・松本智津夫=の控訴審でも焦点となっている。
理解不能な犯罪に対して、防犯対策を強化することは必要だが、事件の動機や背景を解明することも社会を守るために重要なことだ。
時代を映す「鏡」ともいえる宮崎裁判から、どんな教訓をくみ取ることができたのか。私たちの社会のあり方が問われている。
■『何かの間違い、そのうち無罪に』
十七日の最高裁判決で死刑を言い渡された宮崎勤被告(43)は、判決後東京拘置所で臨床心理士の長谷川博一・東海女子大教授と面会した。判決を聞いても表情は変わらず「何かの間違いです」「そのうち無罪になります」とはっきりとした口調で無罪主張を繰り返したという。
長谷川教授によると、面会は午後三時ごろから約十五分。宮崎被告はほおづえをついたまま応対した。
判決前日の十六日にも面会したが、その際は「わたしが優しいということを伝えてほしい」と話していたという。(東京新聞)
宮崎家17年の『地獄』
自殺の父親『どんな子でも、私の子ども』
埼玉、東京で四人の幼女が殺害された「幼女連続誘拐殺人事件」は、発生から十七年を経て宮崎勤被告(43)の死刑が確定することになった。事件が明るみに出た一九八九年七月、百人を超える報道陣が東京都あきる野市(当時、五日市町)の宮崎被告の自宅に押し寄せた。それから一カ月ほど後、本紙との単独インタビューに応じた父親の憔悴(しょうすい)しきった姿が、今も脳裏に焼き付いて離れない。 (元社会部記者 坂本丁次)
父親は「こんなことになって」と泣き崩れた。「こんなに苦しむのなら、死んだ方がどんなに楽か」−。目の前に正座して天井の一点をうつろな目で見つめ、苦しみもだえるように声を絞り出した。顔は真っ青で私たちとは一度も目を合わせることもなかった。「地獄のような苦しみ」という言葉が浮かんだ。
「勤は幼い時、手が不自由なのを気にしていた。一時は手術させようと思ったが、手術がうまくいかない場合のことを考えてやめた。勤はその後、うまくいかないことのすべてを、手のせいにしていた」
正座したまま途切れ途切れに息子の生い立ち、被害者への謝罪の気持ちを話した。父親の証言は、事件の背景を明らかにしていく上で大きな意味を持った。
この父親とは、妙な因縁があった。新聞記者の経験がある私の兄とは小学校の同級生。五十年以上前、当時、学生だった私は二年間、週に一度、被告宅を訪れて父親が出していた地域紙・週刊「秋川新聞」の編集を手伝った。
被告が慕っていた地元の町議(当時)を務めたこともある祖父をはじめ、家族全員をよく知り、その後も個人的なつき合いは続いた。幼いころの被告の姿を見たこともある。よく父親の車の助手席に乗っていた。かわいいが無口だった記憶がある。
被害者、遺族の悲劇はいうに及ばないが、事件で宮崎家の家族や親類の多くも婚約の破談、離婚、退職に追い込まれた。改姓した親族もいた。逃げるように住み慣れた町を後にした人もいた。父親は被害者への賠償金を支払うため先祖代々の土地を売り払い、五年後の九四年十一月、青梅市内の多摩川にかかる橋の上から飛び降り、自殺した。
法廷での被告は意味不明なことを口走り、自らの罪の重さを自覚しているようには思えない。離散家族は一、二審に続く三度目の死刑言い渡しをどのように受け止めているのだろうか。
最高裁判決のあった十七日、被告の自宅のあった場所に立った。事件から約一年後、家は取り壊され当時の面影はない。「どんな子どもでも、私の子どもなんです」。十七年前に、被告の父親が心から絞り出すように口にした言葉が、風の中から聞こえてくるような気がした。目に涙がにじんだ。(東京新聞)
17年間かかった裁判の内容は、ほとんどが、宮崎勤被告の「刑事責任能力の有無」の解明に費やされ、なぜこのような事件を起こしたのか? 事件の解明に関しては、明らかにされることができなかった。今後の教訓として残すことは何もなかった。
本人が出頭せず、2分で終わった判決が物語っているのではないか?
あまりにも空しい……空しすぎる判決だ。