2009年03月09日

重信房子さん 癌を告知されていた

確定死刑囚の大道寺将司さんと社会をつなぐ交流誌、「キタコブシ」というミニコミ(死語?)があります。
http://share.dip.jp/hannichi/kitacobu/kitako.html

紙面の「友人の便りから」という記事に、毎号重信さんからの便りが掲載されている。

今回は、癌告知されていたことが掲載されていた。

医療刑務所での癌治療は、たぶん日本でも最低の治療なんだろうと想像できる。
極端なことを云えば、合法的に処刑することができる施設なのだろう。

2009年の連帯のあいさつを送ります。ガザ空爆と日比谷「派遣村」ではじまった新年。怒りを変革へと育てたいですね。不公正なパレスチナの現実に平和はありません。でたらめな大企業優先の不公正な結果の「派遣村」の現実、公正を求める世界の人々の巨大な絆を夢想中です。
私の方は、去年の仕事納めの26日午後に「癌告知」をうけてしまいました。大腸癌で、1月早々の手術の必要を言われました。いつも捨てたり、拾ったりしてきた命。どこでも天命のままに変革の一助に尽くしたいと今も思っているところです。もういつ、「はい、明日手術です」と言われるか……と、時間と競争しながら、山のような宿題に追われているところです。手術よりも、手術になったら筆記用具とか、発信ができないと聞いて、そっちが私には一大事と、願箋を書いたところです(未決囚の権利の、一日一通を発信させてほしい、毎日の新聞、筆記用具など)。「ダメです」ではなく、「症状に応じて」と回答を得て少しホッとしているところです。
将司さんも体調はどうでしょうか。どうか健康でいてください。手術のあとに、またお便りしますね。由紀子さんには、“本人の教育に好ましからざる人物”として、私から発信しても受信は不許可です。この場を借りて、由紀子さんにも一言。「癌告知うけたけど、がんがん、がんばる!という感じで今年も前向きにすすみます。文芸部を歌で復活させる新年としたいです」と伝えてください。では、また。
今日19日、東大闘争「落城」の日です(この日、私は23歳。中野の中学校で教生をしていましたが、授業が終わるといそいで戻って、御茶ノ水の市街戦を闘ってた日です。40年前! 2009.1.19記)
東京拘置所 重信房子さん


文中の由紀子さんとは浴田由紀子(えきだゆきこ)さんのこと。
東アジア反日武装戦線のメンバーで服役中の1977年9月、重信さん率いる日本赤軍によるダッカ闘争により「超法規的措置」として釈放されましたが、1995年3月20日、ルーマニアで潜伏活動をしていたところ身柄を拘束、現在は懲役20年が確定し服役中です。


重信さんの手術はとっくに終わっているのでしょうが、手術後の健康状態はどうなのでしょうか? 気になります。
posted by 死ぬのはやつらだ at 19:59| Comment(7) | TrackBack(0) | ガンバレ左翼 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
警察署で署員が飛び降り死亡 左胸に遺書 愛知・熱田

http://www.asahi.com/national/update/0309/NGY200903090003.html

自殺したのは会計課
Posted by kt at 2009年03月09日 21:32
右も左も意地はらずに、対国家な時代かな。
この人は存在として生抜いたよね。
オイラは敵陣だったけど対官僚なら組んで
見たかったもんだね。 
Posted by 特攻6 at 2009年03月09日 22:30
重信さんの「戦争ですから人が死ぬこともあります」という発言を思い出します。
実際には日本赤軍は「デビュー戦」であるリッダ闘争にあたって、最後まで「戦争で人を殺すこと」に悩み続けたそうです。
そして、一般の空港利用者などおかまいなしに発砲してきたイスラエル軍の手投げ弾から乗客の子供をかばって死んでいった。侵略者と戦うことの責任を、自分の命を的にすることでとっていた。そして「戦争に参加したこと」についていっさいの言い訳をしなかった。

いつも彼らのことを思う時、同時に思い出すあいつ。実際には無差別爆撃で日本赤軍が殺した侵略軍兵士の何百倍もの数の無辜の市民を大量虐殺しておきながら、「犠牲は最小限」「人道的な攻撃」などと見苦しい言い訳をふきまくり、そして自分は絶対に安全なホワイトハウスの奥でふんぞりかえっていた誰かさん。あいつこそが記者の目の前で「戦争だから人も死にます」と言うべきだったろう。自分が戦場で命を的にするべきだった。
まさに重信さんと好一対。侵略者と戦った重信さんではなく、自分から他国を侵略したこいつこそが本当に獄につながれるべき人間です。

何としても重信さんを生きて取り返したいと思います。
Posted by 草加耕助 at 2009年03月10日 00:52
>右も左も意地はらずに、対国家な時代かな。

大賛成です。
左右で分裂している時代ではありません。
分かり合える部分で共闘して闘う時です。
Posted by やつらだ@特攻6 殿 at 2009年03月10日 13:26
日本政府は重信さんを釈放し、特別大使として中東各国で外交させれば良いのにと思います。
Posted by やつらだ@草加耕助 殿 at 2009年03月10日 13:30
この国は政治犯という概念はないですよね。
ヨーロッパではかつての左翼の闘士で活動家で牢獄に入ってたという人物でも政治家として活躍してる人もいるのにね。
Posted by 無産者 at 2009年03月10日 21:25
>草加さん
>日本赤軍は「デビュー戦」であるリッダ闘争・・

細かいことと思われるかもしれませんが―

日本赤軍が正式に発足したのは1974年ですから、歴史的事実としてリッダ闘争=日本赤軍ではありません。

奥平・重信両氏がアラブに渡って、まず名乗ったのは「アラブ赤軍」だったわけですが、ではリッダ闘争が「アラブ赤軍」によって敢行されたのかといえば、これも少々違う気がします。「アラブ赤軍」は「奥平・重信グループ」でしかないと言うべきです。

当初のメンバー=奥平・安田・山田・檜森氏らは京都パルチザンの線で繋がっていたのであり、丸岡・岡本両氏を送り出したのも赤軍派ではなく帰国した檜森氏でした。奥平氏を除けば、彼らは「奥平・重信グループ」ではありません。仮に彼らが「アラブ赤軍」を名乗っていたとしても、それを日本赤軍の前身と呼び得るかは疑問です。

重信氏はリッダ闘争には全く関与しておらず、その作戦さえ知りませんでした。
奥平氏自身、奥平・重信グループの一員というよりも京都パルチザンの同志達との闘争と考えていたのではないでしょうか。

重信氏は後年、リッダ闘争をさも日本赤軍の闘争であったかのように総括しました。
重信氏の中ではBUND〜赤軍派〜アラブ赤軍〜日本赤軍という一本の確かな流れとして認識されているのかもしれませんが、それは安田・山田・檜森氏に対して配慮を欠くものではないか(更に奥平・岡本氏に対しても?)と思われます。
あれはあくまでPFLPと京都パルチザン関係者による作戦であったと、と言うのが俺の見解です。

※ネットカフェでビールを飲みながら書いたので、まとまりに欠けると思います。文意も充分伝わらなかったかもしれません。お許し下さい。

Posted by 一日千秋のプロレタリアート at 2009年03月10日 22:58
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