2004年11月28日

明るい躁病 狂気の蘆原天皇

東京に、都立松沢病院がある。

戦前、そこには「蘆原将軍」という自称天皇の患者が君臨しており、家来を従え、独自に勲章の授与などの公務を精力的に行なっていたことは、誠に興味深いものだ。

平野威馬雄さんの名著「隠者の告白」 から、蘆原天皇を紹介していく。


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【松沢病院】

明治の初め行路病者や窮民は養育院に収容されていたが、精神障害者収容の必要から1875年その一隅に癲狂室が設けられた。1879年独立して東京府癲狂院となった。これより先、わが国で初めての公立精神病院としては1875年に京都府癲狂院が設立されたが、公費の財政援助がなく1882年に廃院となった歴史がある。1887年、癲狂院での治療は東京大学で負担することになり院長制を廃し医長制となった。当時はなお保護室が多く患者の拘束監禁は当然とされていた。1889(明治22)年、名称を東京府巣鴨病院と改め、1901年呉秀三が医長となり強制方法の撤去・隔離室の使用制限・外出の許可・職員服務の厳正・裁縫などの作業療法の組織化など一連の改革を断行し、患者中心の病院を目指した。このほか、看護者の養成や勤務体制の改善にも努めた。1904年院長制が復活し院長の権限が伸長された。1919(大正8)年現在地である松沢村に移転、府立松沢病院と改称した。同院は従来の建物に比して開放的で分棟式をとり、開放病棟と保護病棟を設け、持続浴を完備したほか広大な作業用地をもち院内に職員の舎宅を設けるなどの特徴があった。移転後の治療法の変化としては作業療法の画期的な発展があげられる。1925年三宅鑛一東大教授が題6代院長に就任。以後各種の身体的特殊療法の導入が積極的に行われたほか(マラリヤ発熱療法、持続睡眠療法、インシュリン療法、カルジアゾルけいれん療法、電気ショック療法など)作業療法やレク療法も発展した。 1936年内村祐之東大教授が第7代院長となり戦争を迎えた。精神病者監置法体制下で患者は戦争の被害をまともにうけ、食糧事情の悪化の始まった1939年から死亡率は急増し(8.5%→12.5%)、ついに1945年には40.9%にも達し、病院は院内の空地を耕すなどして治療よりはまず患者の食糧の確保と生命の維持に懸命であった。 戦後1949年に公務員法により東大教授の院長兼任が不可能となり、林  が専任院長となった。以来、精神医療の発展に伴い1952年から作業や遊びを中心とした「働きかけ」が始まり、1954年からの薬物療法の導入、1957年からの病棟開放化運動と患者自治会活動、さらに1960年前後からの本格的な社会復帰活動など現在の精神医療の基礎が築かれて、また医員のなかから多くの中堅的な学者や臨床医が輩出した。院長には、江副勉、詫摩武元、岡田敬蔵の諸氏が歴任している。1962年から全面改築が進行中である。現在、入院中心から外来・地域医療中心への脱皮の問題、都立病院という官僚組織の枠の中でのそして1500床というマンモス化した精神病院における医療の質が真剣に問われている。(“精神医学事典”、加藤正明、保崎秀夫ほか編集、1975,弘文堂 より)

蘆原将軍、本名、蘆原金次郎、金沢の生まれで、櫛を作る職人であった。

生来小心で癇が強く、酒好きの酒乱であったという。その金次郎が発狂したのは、懲役とそれがもとの離婚が重なった24歳の頃。突然大言壮語を発して、意味ありげに諸官庁やら九条家やらを頻々と訪れるようになったという。

明治15年10月、蘆原ははじめて巣鴨病院(一般には巣鴨脳病院と称されていた)に公費患者として収容された。前年の7月に天皇直訴未遂事件を起こしことが原因であった。その後一時脱走したが、傷害事件を何度か起こし、そのため明治18年再収容された。ちょうど、彼が在院中に、日露戦争に日本が勝利、今まで一無名患者だった蘆原の妄想は華やかな軍国主義の偶像にすっかり魅了され急激に誇大化していった。日本が大勝をおさめ陸海軍の将軍があいついで凱旋し世間の畏敬のまととなった、この素晴しいイメージが、彼の心にそっくり錯覚となって、いつしか彼は将軍となっていた。

大正15年5月28日付けの『時事新報』に次のような記事がある。

「内閣改造問題の將來を尋ねると將軍曰く『政黨は太政官制を布き、若し命令に叛く奴があつたら他國に流罪にせよ、研究會の?木や近衛は食糧係にすればよい』 軍備縮小に就て將軍の意見は『飛行機が發達すれば大砲をやめる丈だ、それから歐州の政局は豪傑張りの佛國と女張りの英國とが印度のシンガポールを取りつこする云々』」

「彼は、日露戦争が勃発すると、国運の危急をを救うために、木綿切れと糊を固めて、長さ二尺五寸直径五寸ほどのハリボテの大砲を一人で作り上げた。夥しい勅語を濫発して、ロシアの陸軍大臣に太政大臣蘆原将軍の許へ参内せよと命じたり、露国皇帝が陸海軍を廃止し、帝室費三千万円を献上したうえ日本天皇陛下に世界万国を属国として捧げる旨の外交文書を勝手に作成したりもした。

彼はまた全世界の金を一手に製造するために、道灌山に大蔵省と造幣局とを移し、巨大な紙幣印刷機を作って一時に千億円をこしらえようと企画した。東京帝国大学のかわりに蘆原国大学堂を建てようとした。朝鮮に渡って米作技術を改良し、一年に十回米が穫れるようにしようと思い立った。ついでに満州は広いから世界の公園にしてしまうべし。列強や明治の元勲たちにも平気で勅令を下した」(種村季弘のネオ・ラビリントス2 奇人伝より)

大正8年巣鴨病院から、松沢病院へ移るとき、この軍籍無き将軍は、輸送指揮官となり小旗をもってトラックの上から多くの狂人を指揮した。巣鴨から松沢までの長い距離をバカボンのパパのような狂人の群れを移送するのだから、沿道はやんややんやの人だかり。新聞記者もネタを追い掛けまわった。こうして、将軍は有名人となった。そして、遂に彼の名は松沢病院の象徴となったわけである。これ以後昭和12年2月に至るまで、実に半世紀以上の長きにわたる病院生活を送ったのだが、病院に収容された狂人は、もはや、誰にも危害を加えない。当時のマスコミは折りに触れて将軍との会見記事を載せた。

「(病院に収容されて)以来六十余年間、彼はたえず新聞種にな る。新聞記者がネタがなくなると巣鴨病院に御託宣を伺いにいくのである。そのたびにまことにツボにはまった意見が飛び出してくるのだから、やめられない。一面の政界記事を三面まで裏返し、こっぴどく笑いのめしていたも同然であった」と種村季弘は書いている。   徳川夢声なども、「明治三十八、九年の頃、すでにその名が芝居に脚色されるほど、大衆的名声があったんだから、現存の、あらゆる名士のうち、その人気の永き点において、この〈将軍〉に匹敵する者は、先ずあるまい。彼こそ或意味において吾が日本の〈名士〉中の名士である。……中略……明治三十三年巣鴨脳病院の王様になって以来、今日に至るまで、彼の地位は厳として動かない。某々総理大臣の名は内閣瓦解と共に新聞から消えても、葦原将軍会見記事は、毎年毎シーズン出ないことはない」と述べている。

昭和に入ってから、いつしか、将軍は自分の事を、天皇と思うようになった。天皇の胸には、金紙銀紙でこしらえた勲章が垂れ下がり、紙製の軍旗7つ、正装軍装1着、山高帽子、シルクハッ ト、軍扇、サーベル、大礼服の鳥毛帽子などを得々として並べていたという。また、蘆原天皇には、侍従武官と言う患者のおつきがいた。天皇になった将軍の勅語の代筆をしてこづかいをもらったり、していたようだ。蘆原天皇は参観人に教育勅語を30銭という法外な値で売りつけたり、手製の大礼服を着て、写真撮影料を要求したり、痴呆とは思えないほどちゃっかりしていた。

松沢病院、南側第2病棟の一番すみに異臭のただよう小さな部屋があって、そこが、蘆原天皇の皇居となっていた。無数の「野良猫」をそこで飼っていたのだ。将軍天皇はおそろしく早起きで、きげんのいい時でもわるい時でも、窓をガラリとあけはなち、天の一角をにらみつけ、「クモ!…さがれ!…」と、どなる。そのクモのことは何なのか誰にもわからない。

蘆原天皇は、昭和12年2月、88歳の長命を全うしてこの世を去る。

彼と同じ松沢病院に入院していた平野さんは、当時のメモにこう記している。

『金沢のどこかで生れ、貧しい町の角すみの名もない巷の一職人たる金公は、いつの間にかこの、生きるに難い苦の娑婆を、どこかへ置き忘れ、軍国日本の、さっそうたる花形として生まれかわって蘆原将軍…そして今では天皇…広茫たる大松沢の病棟に玉座を占め、しかも、言葉なき猫族と原始生活をたのしみ、時には、うつぼつたる動物本能のおもむくままに、オカマにはけ口を求めてはばかることなく…まさにモラルも掟もはるかに超越した、自由奔放な年輪をきざんでいる男…朝には指一本で一国の運命を支配し、夕には断頭台上の露と消えたホンモノの王様や将軍と、狂人のレッテルを貼られながら、マスコミをもおどらせた軍籍なき将軍蘆原天皇と…そのどちらが、ほんとうなのか?どちらがオカシイのか…ああ…紙製の大礼服と一枚十銭の勅語で生きている、八十歳のデスマスク…静かな終着駅よ…』(隠者の告白より)

蘆原天皇、その存在は、天皇や軍人の存在を茶化し笑い飛ばすものであった。万世一系の大嘘や、人を殺して威張っていた軍人の存在を痛切に皮肉っていたのである。また、蘆原天皇は、我々に身を持って証明してくれた。天皇制なんぞ、まさに「はだかの王様」であり、良く考えてみれば、蘆原天皇と紙一重だってことを。

posted by 死ぬのはやつらだ at 17:34| Comment(0) | TrackBack(0) | この国のスバラシイ国民と社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年11月12日

女帝待望論の茶番 おんなを排除する神道の本質

愛子ちゃんが生まれてから、

「『女帝』でもいいじゃないか」

「女性天皇は、男女平等社会にふさわしい」

という意見がでているが、男系男子の皇位継承が天皇制の伝統である。

血統という差別を本質とする天皇制に平等という近代の概念を持ち込むこと自体が論理矛盾であることはもちろん、女性天皇の制度化は逆に、宮家の増大という差別構造の拡大再生産を引き起こす。

そもそも、天皇制には女帝では絶対につとまらない宗教的本質が存在するのである。


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ラベル:天皇制 折口信夫
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2004年11月07日

【新潟地震お見舞い】その場にいなくてよかった

俺は、その夫妻になにも恨みはない。いや、むしろ良い人たちなんだとさえ思っている。

旦那さんは、「憲法を尊重する」とってもリベラルな人で、幼い頃、アメリカ人に学んだらしい。穏やかに話す人。奥さんは、若い頃美人であった。いまは、長男の嫁さんに気遣いをみせる姑。


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posted by 死ぬのはやつらだ at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | やんごとなき人たち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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